嘉家作丁(かけつくりちょう)は紀ノ川左岸に位置し、和歌山城の北部、本町御門外大和街道(大坂街道)(国道24号線)に沿う町で、城下入口の宿場であった。 寛永10年(1633)紀ノ川大水害後に築造された堤防斜面を利用して建築されたもので、表は道路、裏は堤防で低くなっている「懸け造り」という独特の建築様式。 「紀伊名所図会」には「府城の北の入口にして、西国巡礼又は京・大坂より、和歌浦又は熊野への街道なり。日のかたぶくころには、旅店に小女、往来をとむる声のかまびすしき、ねぐらをもとむるすずめのごとし」とあり、本町御門の閉ざされる夕刻の賑わいが知れる。 紀ノ川沿いの東西の通りは「寛政城下町図」に「片原町」とみえ、道路南側にのみ家が立ち並んで、道幅は4間半である。一方北側は紀ノ川を望んで松並木がになっている。南側に並ぶ家は間口5間・奥行き12間が標準で、54軒の民家があったと伝えられている。 この町内にあった春泉堂は万町の御納家(御用青物屋)村橋善兵衛の別宅で、藩主の参勤交代の際の休憩所となった。また町内各家は藩士休憩のため軒先を深く出し、「一文字の軒」と称されるように高さが統一され、「おだれ」とよばれる深い軒先を通って、東西約3町の間を通り抜けられるようになっていた。この軒先の修復は藩費で賄われていたようである。 今もその面影を残しているが、大部分は明治以後の建築である。そしてこの「懸け造り」の家も少なくなり、軒下を通って通行できる家は一軒も無かった。 古い一部の家では今でも表通りから家に入ると、下の部屋へ降りる階段があるようであるが、公開されていないので確認はできない。残っている伝統的な様式の家の屋根は殆どが本瓦葺きであり、どっしりして重厚な感じを与えている。しかし旧街道筋が拡張されて国道24号線になったので、車の通行量が多く写真を撮るのも苦労するような町並であった。 和歌山県の歴史散歩 山川出版社 和歌山県高等学校社会科研究協会 1995 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 和歌山県の地名 平凡社 下中邦彦 1983年 |
嘉家作丁の町並み |
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