和歌山市加太の町並み
加太
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加太の町並み

 紀淡海峡(友が島水道)を挟んで淡路島の由良に対した位置にあり、古代より水陸交通の要衝であり、大宝2年(702)正月にはもう駅家が置かれている。
明和4年(1767)の諸国懐古覚留によると船数は186隻。うち関東への出漁船68隻・持網船25隻・小漁船58隻・小伝馬船29隻などで、関東出漁船が全船数の三割を占めている。同覚留によると家数593軒・人数2,116人、そのうち310人は関東に主漁している。このように明和4年(1767)頃には関東出漁が船数・出漁人数から見ても極めて比重の高いものであった。
紀伊続風土記(天保10年完成)によると家数478・人数1,694とあり、紀伊国名所図会(文化8年に出版)によると、「川より粟島の社までの地を新田という、この地最繁花にして民戸千余家にあまり、すべて船商にして東は房総、西は九州のはてまでもいたらざる所なく」と記載されている。中国・四国・九州および房総などへの廻船業者が多く、港町として繁栄していた。
また、鯛の一本釣りなどの漁業の根拠地としても繁栄していた。
享保6年(1721)の加太浦町々道幅間数覚によると、道は大道で2間半、狭いところで5尺ほどとある。
明治2年の大指出帳では家数533・人数2,063。船数114艘(150石積1・100石積2・40石積2・30石積2)他に漁船146とある。
今町並を歩いて気づくのは、加太は古くからの漁師町であるのに、比較的道幅が広く取られていて、殆どの道路は軽自動車が通れることである。平胆な土地に町並が展開しているからともいえるが、漁師町にしては大きくて重厚な家屋が多く残っている。廻船業を営む商家が多い港町として多くの冨を蓄え、また、関東までも出漁していた時代の冨の蓄積の賜物だろう。中2階建てで格子戸を備えた本瓦葺きの商家の建物が各所に連なる。でも海岸沿いだからだろう漆喰塗り込めの虫籠窓は一部を除いて見られなかった。
普通に見られる漁師町とは違った重厚な家屋や商家の建物が見られる漁師町・港町である。 
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参考文献     
  和歌山県の歴史散歩  山川出版社  和歌山県高等学校社会科研究協会 1995
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和60年
  和歌山県の地名  平凡社  下中邦彦  1983年

加太の町並み

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