柳本村は上街道沿いの村落で、古墳の密集地帯で、古代・中世には楊本庄(やなぎもと)があり、楊本氏が柳本城を構えた。大和でも有数の大村であった。 慶長5年(1600)織田有楽斎の所領となり、元和元年(1615)有楽斎の所領三万石を分地し、一万石を四男長政(戒重藩)、一万石を五男尚長(柳本藩)に与えときから柳本村は尚長の所領となった。尚長は初め大泉村(現桜井市)に住んだが、寛永年間(1624〜44)に柳本城旧地を接収して陣屋を構えて本拠とした。 上街道の東、柳本小学校近くの伊射奈岐(いざなぎ)神社西北の地が城跡である。中世には楊本氏が柳本城を構えたが、天正年間(1573〜92)に廃城になり、そこが「をくやしき」と呼ばれ、百姓が住みだしたが、その地を尚長が、住んでいた農民に街道筋の替地を与えて接収し、そこに陣屋を構え、柳本藩一万石の本拠地として、そのまま明治維新を迎えた。 また、武家屋敷は上街道から東側で、大手門からの表道筋と広小路筋に大きな屋敷があり、狭い小路には下級武士の長屋がならび、江戸中期には130軒程度となっていた。農民も上街道筋に集められ、次第に上街道筋の町並が形成された。延享3年(1746)には家数400余軒・人数1,768人で、小規模ながら城下町の様相を呈していた。安政5年(1858)の家数343軒・人数1,465人で、あらゆる職種の店が軒を並べ、屋号をもった商家も多かった。 今も古い町並は旧上街道筋に連なり、切り妻造りで中2階建て平入り、格子戸・虫籠窓を備えた商家の建物が並ぶ。かってはこの地で多くの家が商家だったのだろうが、今は仕舞屋になっている家が多い。 今、観光客は山の辺の道(旧上ッ道)を歩くために、多くの方がJR柳本駅を利用され、上街道(旧中ッ道)を横切って山麓へと進まれている。勿論上街道筋を歩くのは私以外には誰も居らない。格子戸を備え、長大な間口を持つ商家の建物が連なり、かっての繁栄した時代を彷彿とさせる光景に出会える町並であった。 奈良県の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1990年 奈良県の歴史散歩下 山川出版社 奈良県歴史学会 1993年 |
柳本町の旧上街道筋の町並 |
柳本町の旧上街道筋の町並 |
柳本町の旧上街道筋の町並 |
柳本町新町の旧上街道筋の町並 |
中山町の旧上街道筋の町並 |
岸田町の町並 |