天理市丹波市の町並
川原城町・丹波市町
地図


丹波市町の町並
丹波市は大和川支流布留川流域にあり、山辺郡の中心地で、古道の上街道(上ッ道)に沿って発展した。
古くは単に丹波と云っていたが、中世末期の市場化によって丹波市と呼ぶ様になった。昭和29年に天理市が誕生したときに、この地に天理教の本部が置かれていてことにより、天理市と名づけられた。
江戸時代の初めは幕府領であったが、元和5年(1619)からは伊勢津藩領であった。
江戸時代には、丹波市村内にあっても、町方と村方に分かれていたようで「元禄郷帳」「旧高旧領」では丹波市村とは別に村高が記されている。
古代の上ッ道は近世に入って上街道となり、京・大坂から奈良を経て吉野・伊勢方面に至る交通路として重要な役割を果たした。江戸初期に伊勢国津藩が領内の道路整備と宿場の保護に努めたため、街道筋の丹波市が発展した。
商業活動が活発になるにつれて丹波市は急速に繁栄を遂げた。この様子は伊勢津(藤堂)藩の城和奉行であった西島八兵衛の「万控」(伊賀上野市立図書館蔵)によると、万治2年(1659)万治3年(1660)の項に、近隣各村組ごとに領主への献金額が記されているが、古市組が17両と50両。磯上組が11両と50両。桜井組が50両と90両とあるのに対して、本来磯上組中の村であるにもかかわらず丹波市だけが、別扱いで137両と120両となっている。丹波市が如何に経済的に繁栄していたかが判る。
元禄年間(1688〜1704)の資料によると丹波市村の商家として、あらゆる職種が存在し、町場的な様相が伺え、屋号を有するもの20余りを数えていた。
寛延年間(1748〜50)には戸数186。人数1076であり、寛政11年(1799)には160軒中100軒に屋号が付けられるほど繁栄していた。
町並は、上街道筋に沿って本町・中之町・南之町・中島町・北之町・新町ができ、また東町・裏町も作られた。また、本町の北側で道が屈曲している。これは当地が宿場町でもあったことが伺え、宿場の中心は中之町だったようだ。
町並を構成する商家の建物は、平入りの切り妻造りの中2階建て、虫籠窓を備え、桟瓦葺き、格子、荒格子、出格子で袖壁も付いていた。煙だしも一部の家屋で残っていたが、この町では駒繋ぎの輪は発見できなかった。
町並の中ほどにある、市座神社は市の守り神の蛭子社として祀られたもので、丹波市の歴史を物語るものである。
町並指数  50
参考文献
  奈良県の歴史散歩下  山川出版社  奈良県歴史学会  1993年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1990年
  http://www.aasa.ac.jp/people/onomi/3714.html


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