田辺は和歌山市から海岸沿いの南方約100kmの所に位置し、田辺湾を控えた天然の良港に恵まれ、古来から紀南地方の政治・経済・文化の中心的役割を果たしてきた。 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い直後に、和歌山藩主浅野幸長が紀州に入り、その重臣浅野氏重が慶長11年(1606)に、会津川河口左岸砂丘上に湊村城(別名湊城・田辺城)を新築し城下町の整備に着手した。砂丘の高い地帯には武家屋敷を、低平地には町人町を配したが、元和元年(1615)の一国一城令により城は破棄された。 元和5年(1619)徳川頼宣が和歌山藩主になり、当地には家老の安藤直次が入ったが、和歌山常住であったため、当地では直次の従弟の安藤直隆とその子孫が明治まで政務を行った。 安藤氏は浅野氏の城下町整備計画を継続推進した。寛永年間(1624〜44)の古図によると、二重濠の中に城地、外濠と内濠の間に藩士屋敷を、郭外に与力・足軽屋敷、町人町が配された。町人町には本町・片町・紺屋町・長町・新町で長町は上下にに分かれている。 町人町の家数・人数は寛文7年()田辺で271・2516、江川浦(会津川右岸)で123・1483とある。享保10年()では江川浦を含んで家数756・人数2720で、商職人は酒屋14・質屋10・小質屋8・麹屋11・魚売商38・古手38・紺屋20・鍛冶屋7・大工33・桶屋7・旅人宿19・旅商人宿6・医師13等で、漁師は257人とある。 廃藩置県により田辺城及び郭内地域が上屋敷となり、武家屋敷地にが中屋敷町・下屋敷町・新屋敷町が成立した。孫九郎町が今福町に、江川浦が江川町となった。 今、古い伝統的な建て方の民家は、下屋敷町・中屋敷町・今福町・南新町などに多く見られるが、町並を形成する程でなく、古い形式の家屋が広い範囲に点在していた。江戸時代は城下町(陣屋町)であったが、その名残は中屋敷町と下屋敷町の町割りに見出せる、細い路地のような道が続き、枡形も残っていたが、町並としては殆ど残っていない。 和歌山県の歴史散歩 山川出版社 和歌山県高等学校社会研究会 1995 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 和歌山県の地名 平凡社 下中邦彦 1983 |
下屋敷の町並 |
下屋敷の町並 |
下屋敷の町並 |
中屋敷の町並 |
中屋敷の町並 |
今福町の町並 |
今福町の町並 |
八幡町の町並 |