高取城は高取町の南東に聳える高取山(標高584m)の上にあり、近世の山城として名が通っていて、江戸期の藩主の居城としては、全国最高所・最大の山城であった。 大和に入った豊臣秀長は、高取城を重視し、家臣の大名脇坂安治、次いで本多正俊を城主として大規模な改修を行った。本多氏は関ヶ原の戦いでは、徳川家康の東軍に属し、戦功により高取城を安堵されたが、寛永14年(1637)本多氏が断絶、城番時代を経て寛永17年(1640)譜代大名の植村家政が2万5000石の大名として入り、以後明治維新までつづいた。 江戸期の高取城は山頂の本丸には3重の天守閣などの建築物が並び、当初は藩主や家臣が居住したが、生活の不便から、順次山麓の下屋敷に移り、山頂は殆ど空き屋敷となったが、明治維新まで城は維持されていた。 藩主はじめ家臣の屋敷は街道筋の下小島村や土佐町に移され、土佐・観覚寺を合わせた4ヶ村が城下町としての性格をもった。 土佐町は藩主や藩士の下屋敷を建てて移転した場所で、同所を藩庁としたため、高取城下の中心となった。こうして城下町が形成されたので、武家屋敷、町人地と農家とが混在することになった。 もともとは八木から壷坂寺に通じる街道筋に町場として発達した地であったが、藩主や藩士が山城を降りて、ここに居住したことにより高取城下を形成したのである。 町並みは近鉄壷坂山駅から、国道169号線を横切り国道と平行に南北に通る街道に沿って町並みが発達している。北から観覚寺(町名)・下土佐・上土佐・下子島・上子島と続き4kmほど山を登った所に、高取城跡がある。 上土佐は藩政時代は土佐町と呼ばれたところで、藩庁も置かれ城下町の商業経済の中心地として栄えたところである。高取幼稚園の入口・石の道標の立つところは札の辻と呼ばれ、藩政時代には高札場が設けられていた。 この札の辻の南側の下子島は主として武家地であり、北側は町人町であった。 このことは今でも町並みを歩くとはっきりと区別でき、上土佐の商家の建物から下子島に入った途端に武家屋敷の長屋門が出迎えてくれる。 下子島の田塩家や植村家の長屋門が印象に残るが、特に植村家の長屋門は間口が39m余りもある巨大なもので、マナコ壁の意匠が目を引く。この長屋門は文政9年(1826)にもと旧高取藩家老の中谷氏の住宅の長屋門として建てられたものであり、現在は旧藩主植村氏の居宅となっている。 下土佐の石川家の主屋は商家の壮大な建物であり、入口に駒繋ぎの輪が左右に一個づつ備わり、南側の石川医院の入口は、家老級の門のような大きな門があり、それにも駒繋ぎの輪が残っていた。 下土佐と観覚寺の街道は薄い茶色のカラー舗装と石畳の道路で景観の保全に気を配られていて、観覚寺に入ると、道の両側には水路が流れ、家々の入口には石橋が架けられていた。 町並みを構成する、伝統的な商家の建物の一般的なものは、切り妻造り平入り・中2階建て・桟瓦葺き・漆喰塗り込めの虫籠窓・荒格子・出格子で、煙だしを残した家も多く見られた。茅葺屋根の民家も点在したが全部トタンで覆われていて、風情が残っていなかった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1990年 奈良県の歴史散歩下 山川出版社 奈良県歴史学会 1993年 |
観覚寺の町並み |
観覚寺の町並み |
下子島の長屋門(植村家) |
下土佐の民家 |
下土佐の町並み |
下子島の長屋門 |