竹内街道は日本最古の官道で、難波から河内平野を経て竹内峠を越え、当麻町長尾神社に至る約30kmの道で、推古天皇21年(613)に作られたといわれている。 かって遣随使や遣唐使もこの街道を通り、飛鳥時代、中国や朝鮮の優れた大陸文化がもたらされ、飛鳥文化を開花させた。都が和銅3年(710)に奈良の平城京に移ると、官道としての役を失ったが、自治都市・堺が栄えた中世末には、堺と大和を結ぶ道として再び脚光をあび、竹内街道ができあがる。江戸時代になり、西国巡礼や伊勢詣、山上参り(大峰詣)などに利用され宗教の道でもあった。 江戸時代になり、河内から奈良盆地を横断し伊賀に至るこの道は、初瀬街道(伊勢街道)と呼ぶことが多くなったが、竹内街道の名は河内でそう呼ばれていた。 戦国時代の末には筒井氏の治めるところとなったが、江戸時代の竹ノ内村は旗本桑山氏知行であり、当地に陣屋をおき大庄屋の小峠氏が地方役を務めていた。安政5年(1858)村明細書によれば家数135軒・人数771人で酒造家1・絞り油屋4・造り醤油屋1・薬種屋1・鍛冶屋1・桶屋1・木挽屋1・大工3など多種の業種にわたり、明治2年諸商売諸職人取調書上帳には、茶屋・旅篭屋・煮売屋がそれぞれ5軒づつと記載され、在郷町を形成していたようだ。 竹内の集落は、街道の両側にはきれいなせせらぎが流れ、街道沿いには切り妻造り、中二階、平入り、虫籠窓、桟瓦葺、格子、出格子の民家や前栽のある入り母屋造りや切り妻造りの重厚な民家が続き、落ち着いた雰囲気の町並み、家並みである。 かってこの辺りは大和棟の民家が並んでいたのだが、今ではトタンの覆いのない茅葺の大和棟の家屋は、竹内では2軒になってしまった。大和棟または「タカへ」とも言わ、この茅葺きの屋根は、「高塀」からきているもので、茅葺屋根の両端にウダツという一種の壁を造り、その上に二列か三列の瓦を置いたもので、この瓦葺が茅葺より高いのをタカへ、低くて屋根より浅い勾配となっているのをヒズミタカへという。 茅葺屋根の家だが、お金がたまって裕福になると、妻に白壁をつけて、せめてその上にだけ瓦を置いた。これをウダツと呼んで「あの家はウダツを上げた」といい、金回りがよくなったという意味だった。 このように最初は妻の補強や茅葺屋根の「しまい」をきれいにすつためにウダツをつけて、その上に瓦を置いたものだが、後になるとこれは単なる飾りとなり、むしろ茅葺屋根に乗るような形となった。これが大和平野の家屋の特徴となり、大和棟と云われるものだ。この竹内を初めとして当麻寺の参道には数は少なくなったが、大和棟の家屋がまだ多く残っているのである。 奈良県の歴史散歩下 山川出版社 奈良県歴史学会 1996年 関西歩いてみたい道 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 1997年 絵図でみる竹内街道 太子町立竹内街道歴史資料館 平成6年 |
竹内街道長尾の町並み |
竹内の町並み |
竹内の大和棟の民家 |
竹内の大和棟の民家 |
竹内の町並み |
竹内の民家 |
竹内街道沿いの長尾の民家 |
竹内の大和棟の民家 |