捕鯨の町として名高い太地町太地では、江戸時代初頭より組織だった捕鯨が行われていたところ。熊野灘に面した太地湾の最奥部に太地集落がある。 江戸時代は和歌山藩新宮領太田組に属していた。江戸初期までの捕鯨は「流れ鯨」「寄り鯨」といったいわば海の迷い子を捕獲していたものだが、和田頼元がそれまでの捕鯨を組織化して数十艘の組織された船団で鯨を追い込んで銛で突き取るという方法を考案した。これまでに比して大きな成果を上げた。 当時鯨は一頭70両であったらしく、鯨一頭で七浦を潤すと言われたが、天和3年(1683)末から翌年春までの間に座頭鯨91頭、背美鯨2頭を捕獲したといい、いかにこの浜が潤ったかが判る。 そして和田頼元の孫角右衛門頼治が、大きな成果を上げているが、逃がす鯨も多かったので、宝永5年(1708)に鯨網による捕鯨を考案してからは、一村あげての同盟体として組織をつくり、鯨方をおいて、村全体の自主経営が行われるようになり、この村は大変潤った。 太地村の鯨方の自主経営も、江戸後期には度重なる災害や不漁などのため行き詰まり、ついに寛政期(1789〜1801)に和歌山藩の鯨方として藩の管理下に置かれた。 これは北太平洋における外国各国の捕鯨との関係が濃いと考えられる。そして幕末期から更に衰退したが、明治に入り和田家を中心として復興に取り組んだが、明治11年12月24日の悪天候による大惨事で壊滅的打撃を受け、和田家を中心とする村一体の鯨方は事実上幕を閉じた。 文政元年(1818)の太地村郷帳によると、家数256・網数306(うち鯨網180)。二分口役所控によると、鯨船25・鯨網船9・鯨網180とある。 明治24年家数582・人数3,026。この頃よりオーストラリアやアメリカ大陸などへの移住者が多くなった 明治42年の家数641・人数3,520。大正5年の業種別戸数は、農業283・商業78・漁業195・その他65とある。 昭和に入り鯨・イルカの湾内追い込み漁法による大漁捕獲がはじまり、捕鯨会社が地内に進出し、南氷洋などで活躍するものが多くなった。現在の太地の漁業は鮪漁業と大型定置網漁業が主で、他にケンケン漁業・刺し網・真珠養殖などである。 集落内の古い町並は、普通の漁村風景と変わりなく、殆どが平坦地に密集している。細い道に面して平入り切り妻造りの建物が並ぶ。平屋建て・中2階建て・2階建てと混じりあった町並だ。伝統的な様式の建物も多く残り、板張りの町並も見られた。 和歌山県の地名 平凡社 下中邦彦 1983年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和50 |
太地の町並 |
太地の町並 |
太地の町並 |
太地の町並 |
太地の町並 |
太地の町並 |
太地の町並 |
太地の町並 |
太地の町並 |
太地の町並 |