田原本町の町並
本町・市町・堺町・大門町・魚町・味門町・祇園町
地図


大門東の町並
  田原本町は古道の下ッ道(中街道)に沿った交通の要衝であった。
中世に入ると、大和盆地の各地に環濠集落が出現してくる。大和郡山市の稗田や若槻の集落が名高いが、田原本にも3つの環濠集落が存在したと推測されている。
その第一は平野氏が田原本陣屋敷を構えたところで、今は町役場や公共施設になっている。第二は長顕寺のある小室地区で、第三は楽田寺を中心とした地域一帯である。
第一の地域は町役場などが建てられた際に、濠の殆どが壊されてしまったが、他の2ヶ所では今日でも環濠が顕著に残っている。
文禄4年(1595)から当地を支配していた平野長泰は、慶長7年(1602)佐味田にあった大寺教行寺を田原本に移転することを認め、寺内町の建設を許可した。
教行寺の場所は現在浄照寺・本誓寺のある一画で、教行寺を中心とした三町四方は諸役を免除され、寺内町の廻りには土塁や堀が巡らされて、町の入り口には黒門を構えて寺内町が成立したのである。
明和5年(1768)の記録では、寺内町は柴町(現市町)・九軒町(現祇園町)・本町・茶町・魚町があげられている。寺内町を物語る堀も、浄照寺の裏から津島神社の南側によく残っている。
平野長泰から家督を継いだ長勝が、寛永12年(1635)から田原本陣屋を構築し始めたが、領主権をめぐり教行寺と対立が生じた。そして正保4年(1647)に教行寺は田原本を去って広陵町に移ったので、平野氏によるこの地一円の支配が確定した。
平野長勝は寺内町の北東に接する地に陣屋を構築した。古代から中世にかけての古道 下ッ道は寺川の西堤の上を走っていたが、この時に陣屋の西側、寺内町の東側を南北に通じる道として、下ッ道(中街道)が整備されたと考えられる。
陣屋が完成し平野氏による領主支配が行われるようになると、周辺の農村部から人々が移り住み、寺内町の周辺に町を形成した。それらは八幡町・阿島町(現味間町)・材木町・堺町・南町・三輪町で、三輪町以外はいずれも中街道に沿う交通の要衝であった。
教行寺に代って、本誓寺や浄照寺が教行寺の跡地に建立されて、寺内町の繁栄がそのまま維持されて、高市郡の今井町にも比較されるほどの商業資本が形成され、中街道に沿って大きな問屋が軒を連ねた。そして寺川沿いの今里村は今里浜と呼ばれ、田原本の外港として機能した。
町並は陣屋町の名残で、細長い碁盤目状の道であり、各所で折れ曲がったり、T字型の三叉路になっている。外敵の侵入に備えての防備だったのだろう。
この様に田原本は中街道や寺川などの水陸交通を利用した物資の集散地であって、この繁栄は明治10年前後には南大和随一の繁栄えを示した。
今町並を歩くと伝統的な商家の建物は、他の地区に較べ入り母屋造りの商家の建物が多いように感じた。これは明治20年代まで続いた繁栄のたまもののようである。それだけ中2階建ての建物が少なく、伝統的な商家の建物でも、2階建てで、袖壁がなく桟瓦葺き、煙だしのある家も大きな商家では見なかったように思う。多分建築年代も明治の末期の頃でないかと想像する。
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参考文献
  奈良県の歴史散歩下  山川出版社  奈良県歴史学会  1993年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1990年
  http://www.aasa.ac.jp/people/onomi/3713.html


町並

旧中街道沿いの町並

浄照寺へ向う町並

町並

旧中街道沿いの町並

環濠集落の名残
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