すさみ町周参見の町並み
周参見
地図


周参見の町並
 すさみ町の中心地の周参見浦には江戸時代に代官所が置かれ、二つの岬に挟まれた海上の稲積島は、枯木灘の荒波を防ぎ湾内は天然の良港になっていて、商港とし栄えた所だ。
江戸時代は和歌山藩領御蔵所。周参見組の属していた。周参見浦の家数は慶長6年(1601)245、安永2年(1773)435、天保8年(1837)583であり、江戸後期編纂の「紀伊続風土記」では家数560・人数2,482とある。
周参見浦が周参見の中心地として成長したのは、安永頃(1772〜81)から徐々に盛んになってきた海運業の発達によるものである。口熊野奉行所(寛政11年(1799)から口熊野代官所)が置かれ口熊野一帯を支配していた。また天明8年(1788)には御仕入方役所や安永年間〜慶応2年の間(1772〜1866)は二分口役所も設けられていた。飢餓に備えた社倉も置かれ、周参見浦は口熊野の政治・経済の中心地となった。
「続風土記」に「民産農漁を兼ねたり」と記されるように漁業も盛んで二分口役所控によると鰤網6・目近網10・地引網5・大魚掛網9などの他、12〜13人乗りの鰹釣船16・小魚船50・漁船80余りとあり、漁業も盛んであった。
明治6年には家数666・人数3,071。明治24年には家数831・人数3,838で商港としても栄えていたが、昭和11年の紀勢西線(現JR紀勢本線)の開通によって、貨客量は激減し商港としての役目は無くなった。そして漁港として利用されることとなった。
今古い町並は旧熊野街道に沿って展開するが、商業地は旧熊野街道の南側にできた国道42線沿いに移ってしまって、繁栄していた江戸末期・明治・大正期の賑わいは見られない。
でも、旧熊野街道筋には商家の建物が残り、ここが過って繁栄していた街道筋だという名残は各所で見つけられ、ひっそりと静まりかえった町並であった。
町並み指数  40
参考文献
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年
   和歌山県の地名  平凡社  下中邦彦  1983

周参見の町並

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