吉野の商都といわれ、下市の名前は上市に対するもので、下市がより立地条件に恵まれていたので大きく発展した。明応年間には浄土真宗願行寺が建立されて繁栄、これを下市御坊と呼んだ。 明応元年(1492)に下市に願行寺ができ,その後建立された飯貝の本善寺とともに、大和南部への真宗進出の本拠寺となった。そして寺内町が形成されてものと思われる。 大和下市の名を一躍有名にしたのは「義経千本櫻」(竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作)の「鮎屋の段」に出てくる宅田弥助宅は当町本町に今もある。 豊臣秀吉の時代になると、下市も活気にあふれ、商工業も発展した。名物吉野鮎の釣瓶鮨はこのころから上納物として著名となった。 慶長年間から仙洞御所へ鮎鮨を献上しており「大和各所図会」に「吉野川の渓鰮魚(あゆ)を下市村にて酢に製す。その魚を盛るの器、釣瓶(つるべ)の形状に似たり、ゆえにつるべ酢という、その味美にして宮に献る」と記す。このつるべ鮨の文献上の初見は享禄3年(1530)である。(下市町史) 下市の殆ど全域は幕府領であって、寛政7年(1795)に五條代官所が新設されると、同代官所の支配下に属した。 下市は市場町として発展し、元禄年間(1688〜1704)には「下市札」が発行されていて、これは日本最初の商業手形と云われている。厳しい山を控えて、大量のお金を持ち歩けなかったという地形の問題があったからだろう。 江戸中期には当町や近村の商人は、大半が屋号をもち、商業活動が活発であったことを物語っている。 天明8年(1788)の村明細帳によれば家数1088軒、人数3186人である。また、同帳によると、市は毎月 2・7・12・17・22・27・の六回開かれていて、大坂・堺・和歌山より商人が来村し賑わいを極めていた。 下市は三方が丘で米麦生産は少ないが、稗・粟・菜種・胡麻・煙草などが栽培されていた。 上市地区に比べ下市地区は少しは平坦地があるので、その分商業の発達は大きかったのだろう。 その他当地では和紙の生産・漆栽培も行われていた。また吉野山中は薬草が豊富で、幕府は享保14年(1729)植村左平次を派遣して、吉野山中の薬草の調査をおこなった。これを契機に願行寺にも薬園が造られ、山間の村落では各種の薬草が栽培された。 今、町並みを歩くと上市同様、古い町家が点在し、割り箸・三宝・神具などの林業副次的生産物の問屋が多く目についたが、伝統的な商家の建物は数が少なく、多くは改造や改築されていて、町並保存の運動 は一切無いように見えた。 遊ぼうマガジンNO、19 関西小さな町小さな旅 PARTU 山と渓谷社 1997 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1990年 奈良県の歴史散歩下 山川出版社 奈良県歴史学会 1993年 下市町史 下市町 下市町史編纂委員会 |
町並 |
町並み |
奥に見えるのが願行寺 |
町並み |
町並み |
料理旅館 弥助 |