初瀬は初瀬川沿いの長谷寺の門前町である。 長谷寺は朱鳥元年(686)に川原寺の僧 道明が開基、神亀4年(727)徳道上人が本尊十一面観音像を造って寺としての体裁を整えたのがはじまりと云われている。平安時代、貴族の春日詣・長谷詣・吉野金峰詣が盛んになり、清少納言が「枕草子」で沿道の状況を説明しているように、特に貴族の長谷寺詣が盛んに行われた。そのことは「源氏物語」や「枕草子」・「更科日記」など平安期以降の文学作品や日記に多く描かれている。 室町時代に入って庶民の間に、長谷詣に加えて、伊勢神宮参拝が広まり、大和から伊勢への順路にあたる初瀬地方は一層賑やかになった。 この参宮道が近世の伊勢本街道の前身で、室町時代には「初瀬越」と云われていた。 長谷寺門前は参詣客や旅客が往来し、これらを目当てに各種の商いが行われていた。菅笠や菅簾を売る権利をもった商人や、飴売りの商人もいたようである。 文明元年(1469)に長谷寺が火災に遇った際には堂舎24宇のほか、坊・在家120軒が被災したということから、当時相当数の人家が門前・境内に並んでいたようである。 この地は江戸時代の元和7年(1621)から幕府領と長谷寺領の相給のままで明治を迎えている。 初瀬村は長谷寺の門前町として発達した地域で、中心は森町・柳原町・川上町の三町から成り、その外側に新町、寺垣内、与喜浦、馳向の各集落が形成されていた。嘉永3年(1850)の宿割帳によれば、ねずみ屋・ごま屋など多くの宿屋が軒を連ね、参詣客で賑わっていた状況がうかがえる。 また、高取藩主の参勤交代の際の本陣・脇本陣が置かれ、町場として繁昌したが、災害も多く 万治2年(1659)には、「不残焼失」というような大火があり、文化8年(1811)には「初瀬流れ」と呼ばれる大洪水に見舞われている。 明治15年頃の村は戸数553・人口2240であった。 初瀬の門前町は大和川に沿って一筋に延び、天神橋の所で左に直角に折れて、長谷寺仁王門へと向う。 古い伝統的な様式を残す家屋も多く見られる。かっての宿場の名残か旅館も多く、木造建築の落ち着いた店構えの旅館が多かった。 ただ、他の町並と少し異なるのは、土地が狭く、街道の片側は大和川、もう片側は山であり、間口が狭く奥行きが長い家は造れないので、割りに間口の広い家が多い様に思った。 奈良県の歴史散歩下 山川出版社 奈良県歴史学会 1993年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1990年 http://www.aasa.ac.jp/people/onomi/3709.html |