大宇陀町の町並み
上新・上・中新・上茶
地図


町並みにある郵便局
  奈良県中東部の標高320mの丘陵地にひらけた大宇陀は、旧伊勢街道沿いの城下町として栄えたところ。南北町時代から宇陀に勢力をもっていた秋山氏が、古城山(標高472m)に秋山城を築き、その後慶長5年(1600)城主となった福島正則の弟高晴が、城下町を整備したのが大宇陀のはじまりという。
秋山城は福島高晴の居城とし、慶長年間(1596〜1614)に城郭ならびにその城下町の完成をみるに至った。福島氏の没落後、元和元年(1615)に織田信雄 (織田信長の次男)がこの地に封ぜられたが、秋山城には入らず、中の庄村長山に居館を設けて松山城と称した。松山城は次第にその形を整え、これに伴い城下町も、秋山村・城屋村を中心に宇陀川を挟む一帯に形成され、織田氏四代80年にわたり二万五千石の城下町(松山町)として栄えた。
そして織田氏は元禄8年(1695)丹波柏原に移封され、それ以来明治まで幕府領として、在郷町、農村町としての道をたどった。
元禄8年(1695)の松山町は上茶町・上本町・上中町・上上町・中新町・上新町など16ヶ町からなり、家数956軒・人数3728人であった。文久年間(1861〜64)の町数15、家数372軒・人数1540人であった。
大宇陀では森野薬園を忘れてはならない。享保年間(1716〜36)森野藤助によって創始された民間の薬草園で、幕府の小石川薬園の補助機関として重要な役割を果たしてきた。今でも吉野葛の大看板を上げた森野家の裏山一帯が「森野旧薬園」(国史跡)である。森野家は元和年間(17世紀前期)に宇陀に移住、農業を営むかたわら葛粉の製造に従事していた。今でも薬草木が250種も栽培されているそうだ。昔から「宇陀の阿騎野の薬刈り」という薬草の多いところで、多いときには薬種問屋が大宇陀に十数軒あったという。
町並み中程の西側に松山城の西口関門(国史跡)が残る。織田氏四代の頃の城下の名残をとどめている遺跡で、全て黒塗りされていることから「黒門」とも呼ばれていて、門の前後の狭い通路が直角に作為的に曲げられているのも、城下町時代の防衛の工夫をうかがわせている。
旧松山町の街道筋を歩くと、切り妻造り、中二階で漆喰塗り込めの虫籠窓、平入り、格子、出格子、桟瓦葺の間口の大きい商家が軒を連ね、袖壁、犬矢来や玄関の横には防火用水を備えた家も多く見かける。
吉野葛が宇陀地方で生産されるようになったのは元和年間(17世紀前期)の頃だと言われている。旧松山町の街道の中程に、「元祖吉野葛 大葛屋」と書かれた大きな看板を掲げた森野家と「吉野葛製造本舗 黒川重太郎」とやはり大きな看板を掲げた黒川本家が街道を挟んで両側に向かい合ってあった。ともに吉野葛の老舗だ。
大宇陀町歴史文化館(薬の館)は、文化3年(1806)から幕末まで薬商を営んだ旧細川家住宅で、一階屋根部分に「人参五臓園天壽丸」と屋根付きの大きな看板を掲げ、当時の面影を今に伝えている。
大宇陀の商家は道路に沿って、平行に並んで平入りになっていて、間口が大きいので立派に見える。大宇陀では京都のように間口で税金を取らなかったようだ。それと大宇陀では民家の玄関脇に用水桶がある。石製であったり、木製であったりと様々であるが、なかには文化5年(1818)と刻まれたものもある。古くから防火に熱心な町だったことがわかる。
宇陀千軒といわれ、吉野や伊勢から人や物を集めた大宇陀には、旅篭が12軒もあったと言われ賑わっていたが、今は道路や鉄道の交通網から少しはずれたために、江戸時代の町並みの残る懐かしい町になっている。
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参考文献    
  奈良県の歴史散歩下  山川出版社  奈良県歴史学会  1996年
  歴史の町並みを歩く  保育社  高士宗明  平成6年
  関西 小さな町・小さな旅/山と渓谷社  山と渓谷社大阪支局  1997年
  町並み・家並み事典  東京堂出版  吉田桂二  平成9年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1990年

町並み

吉野葛の商家
  
 町並み

大宇陀町歴史文化(薬の館)

下竹の山岡家住宅(県文化財)

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