王寺村の江戸時代は、大坂街道(奈良街道)と高野山・当麻寺に通じる道の分岐点という交通の要衝にあったので、たいへん商工業が発達していた。 江戸時代のはじめは幕府領であったが、元和5年(1619)郡山藩領、延宝7年(1679)からは幕府領となり、そのまま明治を向かえた。他に朱印地の達磨寺領が30石があった。 延享2年(1745)の村明細帳のよると、家数317・人数1,314であり、農地の3割5分程で綿作が行われていた。 大和川の氾濫原に立地するため、しばしば水害に悩まされていて、また干害の被害も多かったが、大和川の船運の発達に伴い集落が形成されていったと思われる。 交通の要衝とは冒頭で述べたとおり、商工業が盛んで、天保13年(1842)酒屋7・米屋6・荒物屋3・紺屋3・豆腐屋4・屋根屋4などが数えられた。 大和川水運は慶長6年(1601)小泉藩の領主片桐且元が年貢米を大坂に運搬するために亀ノ瀬の岩壁を開削して水運を開発した。この水運は大坂側と大和側に分かれ、大和側では魚梁船、大坂側では剣先船が就航した。 魚梁船は佐保川・初瀬川・寺川・曽我川・葛城川・葛下川などを盆地中央部まで遡行した。そして亀ノ瀬で荷物を積み替えて、堺・大坂方面に運んだ。下り荷は米・綿・菜種などで、上り荷は干鰯・油粕の肥料と塩が中心であった。 明治25年大阪へ鉄道が開通して水運は消滅してしまった。 このような歴史ある町で、交通の要衝であり、明治中期まで大和川水運が通じていたので、古い町並が残っているだろうと見当をつけて訪ねたが、見事に外れてしまった。 王寺の場合、集落の近くに鉄道の駅ができた為だろうと思うが、早くから開発が進み、古い町並が殆ど残っていなかった。大阪への通勤圏の立地条件を満たしているので、駅前に巨大な建造物が造られ、今でも開発の波はどんどん押し寄せているようだった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1990年 奈良県の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 |
久度二丁目の町並 |
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