那智川河口右岸に位置し、熊野灘の那智湾に面している。天満は室町時代末期までは陸海交通の要衝で「那智の天満か備後の鞆か」の諺言があるように良港であったという。天満の港で船に荷積みする様子は、那智参詣曼荼羅にも見えている。 旧那智町の役場所在地で、那智川流域の行政・経済の中心地であった。江戸期は和歌山藩新宮領の那智組に属していた。寛永19年(1642)の郷帳によると家数156とあり、新宮領内の2分口役所(全て物に20パーセントの税を徴収する役所)の書上げによると、家数140余りで、農間余業では木材・薪・茶などを産し、漁業も行われ、地引網2・漁船5〜6艘などがあった。 また、明和〜寛政年間(1764〜1801)頃の「紀州新宮領分見聞記」によると、家数150とある。 天満集落は熊野街道に沿って並び、海運業や造船業も盛んで、当地方の商業の中心であったという。明治6年には家数146・人数747とある。 その後、勝浦の発展に伴い、当地は住宅地として発展していった。 古い町並みは、旧熊野街道に沿って展開している。伝統的な様式の平入りで切り妻造りの建物が並ぶが、この地でも平屋建ての建物が多い。やはり風の影響かもしれない。千本格子を残した商家の建物が多く残っていた。 和歌山県の地名 平凡社 下中邦彦 1983年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和50 |
天満の町並 |
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