奈良は和銅3年(710)元明天皇によって現在の奈良市西部に平城京が置かれ、延暦3年(784)に桓武天皇が山城・長岡に都を移す迄の75年間、我が国の首都として栄えた。 都が長岡京、平安京に移った後も、東大寺、興福寺、薬師寺、大安寺、元興寺、西大寺、法隆寺の各寺院は南都七大寺として国家の保護を受け、権勢を衰えさせることなくそのまま残ったので、寺社の仕事にたずさわる人々が住着き町ができた。鎌倉時代にはこれら寺社の保護のもとで市が開かれ商業活動が盛んになった。人口も2万5千人を数え、これは京都に次ぐ第2の規模であった。 永禄3年(1560)松永久秀が信貴山城から大和に入り国中を攻めたてた。三好三人衆は筒井順慶と協力、久秀を倒そうとし、永禄10年(1567)その争いはついに奈良町にまで及び、久秀の放った火によって大仏殿が焼け落ちてしまった。 信長は久秀を倒し、さらに秀吉は大和を直轄領として、弟の秀長を郡山城に入れ、大和、紀伊、和泉の三国を支配させた。秀長は郡山城下繁栄のため、奈良町の商業を抑えた。文禄4年(1595)には、中心部の約100町が奈良町として確立された。 徳川家康が江戸幕府を開いた10余年後の慶長18年(1613)奈良奉行所が置かれた。当時の奈良町はもとの100町に地方町25町と社寺下の数十町を加えたものとなっている。 「奈良の町の十分の九は布(奈良晒)でくらしをたて、布で渡世しない家は一軒もない」と記録されている。貞享4年(1687)の「奈良曝」によると、奈良町全体で、奈良曝関係が700〜800軒を数えるとなっている。 しかしその繁栄も江戸後期には衰えはじめるが、それに代わって寺社への参詣者が増加したため門前町として、芝居、南都八景、遊郭等で賑わいを保っていたが、明治元年(1868)の神仏分離令により奈良は大混乱になる。 民衆が各地で仏像や寺を壊し経典の多くも焼かれてしまった。なにより大打撃を受けたのは興福寺で、五重塔が金具を取るために焼かれようとしたのは有名な話であり、寺僧の多くが僧をやめたため廃寺同然に荒廃し、かっての面影をなくしてしまった。 奈良の復興を願って、明治8年(1875)には東大寺を会場に第一回奈良大博覧会が開催され、明治13年には興福寺境内と春日野を整備し県立奈良公園が創設された。 奈良を訪ねる観光客が増え始めたきっかけは、明治25年の奈良〜大坂湊町間を結ぶ関西本線の開通である。大正3年には大阪〜奈良間に大阪電気軌道(現近鉄)が開通し、多くの観光客が奈良を訪ねるようになった。 以下ここで云う奈良町は、行政地名としてはないが、元興寺の旧境内を中心とした一帯にできた町を奈良町と呼んでいるものです。 南都七大寺の一つ元興寺は南北四町、東西二町の境内には金堂、講堂、鐘堂などが建ち並ぶ大伽藍を誇っていた。しかし宝徳3年(1451)の大火で殆どの建物を焼失し、難を逃れたのは極楽坊、観音堂、五重塔、吉祥堂、南大門ぐらいであった。 焼失したお堂跡に町家が建ち並ぶようになり、安政6年(1859)には五重塔、観音堂も焼失し、極楽坊のみが残った。 奈良町の古い町家は間口の狭い切妻造り、平入り、中2階建て、格子、蔀戸、虫籠窓、軒ひさしなどによって表構えが成り立ち、この基本的な構成を保ことにより町並みの表情を統一する一方、窓や格子のデザインで個性ある町家の表構えを形づくっている。 奈良町のどの町家の軒先にも猿のぬいぐるみが下がっている庚申信仰の身代わり猿だ。清水通り福智院町の今西家書院は、国の重要文化財に指定されている貴重な建物で、江戸時代には福智院家の住居であったが、大正13年に隣家の今西清兵衛氏がこれを買い求めた。室町時代中期の遺構であり中世の書院様式の住宅の名残をよくとどめている。 中清水町には市指定文化財で江戸末期の建物の醤油醸造元がある。、嘉永年間(1848〜1853)以来150年近く醤油醸造の伝統を持つ老舗だ。切り妻造り、中二階で荒格子、虫籠窓、桟瓦葺、くぐり戸付きの大戸のある大きな商家であった。 椿井町には墨の製造・販売店の老舗があり、天正年間(1573〜91)創業以来400年以上墨造りを伝え、風格ある歴史を感じさせる重厚な店構えで、ひときわ目立った存在であった。 奈良町資料館は足の踏み場もないほど、いっぱいに古い仏像や掛け軸、いろいろな民具類を展示していて、展示品の多さにびっくりする。 奈良県の歴史散歩上 山川出版社 奈良県歴史学会 1996年 歴史の町並みを歩く 保育社 高士宗明 平成6年 関西 小さな町・小さな旅 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 1997年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1990年 |
勝南院町の町並み |
福智院町の造り酒屋 |
高畑町の商家 |
中新屋町のはり新 |
中新屋町の町並み |
椿井町の墨屋 |