奈良市猿沢池南側の町並み 
勝南院町・今御門町・元林院町
地図


勝南院町の町並
 今、奈良町として観光に力を入れている地域は芝新屋町・西新屋町を中心とした辺りであるが、江戸時代の奈良町の中心は猿沢池の南辺りの今の「ならまちセンター」辺りから椿井町にかけた辺りのようだ。奈良町の解説は奈良町のページに記載されているのでここでは省略して、それ以外のことを書くことにする。
この猿沢池南側は上述の通り奈良町の中心地として栄えていた所で、戦国末期には既に「奈良地下中」あるいは「奈良惣中」と称され領主権域を超えた郷連合組織である奈良惣郷が成立していた。
慶長18年(1613)大和国の国奉行であった大久保長安の死を契機に、奈良奉行が設置され、北魚屋町(現奈良女子大学の地)に本格的な奉行所が造営されたときには既に奈良町100町、地方町25町及び社寺下数10町を数えていた。そして享保13年(1728)頃には寺社下町も含めると惣町数205町となっている。
奈良町の家数・人数は寛文〜元禄年間頃(1661〜1704)が最も多く、家数6,000余り・人数35,000余りで(元禄2年(1689)の奈良惣町中諸事覚帳によると惣人数35,369人とある)、幕末には家数約5,000・人数20,000余り人となる。
奈良の名産は奈良曝をはじめとして、酒・墨・武具・ウチワ・味噌・金剛草履・奈良漬などであったが、江戸後期には曝しが衰え、庶民の奈良見物や大和巡りが盛んとなり、西国巡礼札所の
興福寺南円堂や東大寺二月堂が特に参詣客で賑わうように、産業の町から観光の町に衣替えをしていった。
明治12年の文書によると、各町に分かれた総称として奈良町があり、家数5,560戸・人数22,643人とある。
今回訪ねた町並で勝南院町は江戸期は奈良町の一つで南方触口支配に属していて、奈良町の南部に位置していた。猿沢池横から続く上街道沿いの町で医者・曝蔵方・質屋・米屋などの豪商の名前が残る。今も奈良町の一角として古い町並を形成している。
元林院町は江戸期の奈良町の一つで北方触口支配に属し、奈良町の南部に位置していた。布商売・布織・米屋・桶屋・旅籠屋などがあった。明治に入りこの地に遊郭の設置が許可され、娼妓も抱え繁昌の不夜城となっていた。そして大正・昭和初期にかけて置屋16軒・芸奴200人ほどが居た遊興の地であった。今は古い佇まいも残る落ち着いた飲食街や旅館街として古い町並を形成していた。
町並み指数 40
参考文献    
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1990年
   奈良県の地名  平凡社  下中邦彦  1981年

勝南院町の町並

勝南院町の町並

勝南院町の町並

勝南院町の町並

勝南院町の町並

勝南院町の町並

元林院町の町並

元林院町の町並

元林院町の町並

元林院町の町並
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