東大寺境内の西側、旧京街道(一部国道369号線)に沿って古い町並が残っている。 只この国道369号線が今のように拡張されてから以後に建てられた建物だが、拡張時期が調査中で判らないのが気にかかる。 国道369号線の奈良県庁や警察本部などを過ぎると、国道369号線(京街道)に沿った押上町・今小路町・手貝町・今在家町と続く。この辺りが今回の探訪地域である。この4町全てが江戸時代の奈良町の北部に位置して、奈良町の一町で、北口触口支配に属した。 江戸中期の享保20年(1735)の「奈良坊目拙解」によると、押上町は街道の西側だけに民家がある片側町であったと記されていて、東側は東大寺の築地となっている。 しかし同じ「奈良坊目拙解」には北隣の今小路町には、はじめ西側だけに民家がある片側町であるが、東側の築地下に人家が建ち両側町となったのは慶長年間以後とある。いずれにしても最初は西側のみに民家がある片側町であったが、江戸の中期頃には東側にも民家が建ち並んだようだ。 手貝町も江戸はじめには西側に民家がある片側町であったが、その後東側の東大寺築地下に民家が建っていったようだ。 今在家町は前記の「奈良坊目拙解」によると、町屋が無く西側は水田地帯で東側は築地とあるが、西側には民家があった片側町であったようでその後に東側の築地下に民家が建っていった。 この地は京街道に沿って発展したと考えられ、京への交通上の要地であったので商工業の発達もあり、旅籠も多く奈良町形成の一拠点となった。 曝蔵方、墨屋、酒屋、木綿屋、呉服屋、旅籠屋、質屋、古手屋、薬種屋、塗師、醤油屋などの豪商が名を残している。中でも今小路町の土門氏は八幡神社の禰宜であって、松屋と称した塗師で、松屋茶記録の襲蔵家として茶道界に重きをなしていた。この松屋の住居は今御門町から転轄門までの西側の大部分の広大な敷地を占めていた。 また特筆すべきは今小路町から手貝町には中世から続く旅籠が多くあり、街道筋が賑わっていたことが判る。 さて、今の町並だが、道路が拡張された後に建てられたのだろう。大正から昭和初期に建てられた様式の町屋が多いようだ。切り妻造り平入り、2階建てか中2階建てで虫籠窓や煙り出しを備えて町屋も散見できる。 只国道369号線に沿った町並だから車の通行が多く、ゆっくりと町並歩きを楽しむという雰囲気でないのが惜しまれる。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1990年 奈良県の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 |
押上町の町並 |
押上町の町並 |
押上町の町並 |
今小路町の町並 |
今小路町の町並 |
今小路町の町並 |
今小路町の町並 |
手貝町の町並 |
今在家町の町並 |
今在家町の町並 |