奈良市奈良女子大周辺の町並み 
坊屋敷町・花芝町・鍋屋町・西包永町・西笹鉾町・西新在家町・北小路町
地図


坊屋敷町の町並
 奈良女子大学校の周辺の町並で北は旧一条通りから、旧二条通り辺りまでの町並の探訪である。この大学の南側の旧二条通りの各町は江戸時代は奈良町の北部に位置し、この地域の東南は興福寺の北築地に接していて民家は無かった。
慶長18年(1613)大和国の国奉行であった大久保長安の死を契機に、奈良奉行が設置され、北魚屋町(現奈良女子大学の地)に本格的な奉行所が造営された。寛文4年(1664)に奈良代官が新設され、奈良奉行所の役目は終わったが、このようにこの辺りは江戸初期には既に奈良町の行政の中心地として機能していたようだ。
旧二条通りには商人・職人などの町屋が建ち並び繁栄していた町であった。貞享4年(1687)の「奈良曝」には、針師の五郎兵衛・利右衛門他2、能書(手習子取)の吉田嘉兵衛、山伏の実相院・多聞院、金具屋の白銀屋仁右衛門、鋳物師の広瀬弥左衛門・広瀬弥兵衛、墨屋の大森和泉、刀屋の善太郎、他に鍋屋4・木綿屋4・蛸塗師・髪結仲間などあらゆる職種が見られる。
興福寺転轄門から延びる旧一条通りに沿う東包永町・西包永町は佐保川の東側の町並で、元禄2年(1689)の竈数は両町合わせて141で、通りに面して栄えた町であったようだ。
今でも旧二条通りは狭い道幅で、4〜5m程度であるが、道に沿って鍋屋町や坊屋敷町には伝統的な商家の建物が健在で、今でも営業されている家が多くあり、活きた古い町並を形成していた。
旧一条通りは、車の通行量の多い道である。多分奈良市街北部の抜け道として利用されているような道だったが、この道に沿って伝統的様式の建物が連なっている。
奈良市内の伝統的な様式の建物は、切り妻造り平入りで、中2階建て虫籠窓を備え、煙り出し、袖壁も備わった家が多く見られる。最大の特徴は荒格子を前面に備えていたが、随分数が少なくなってしまった。
町並み指数 40
参考文献    
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1990年
   奈良県の地名  平凡社  下中邦彦  1981年

坊屋敷町の町並

坊屋敷町の町並

花芝町の町並

鍋屋町の町並

鍋屋町の町並

鍋屋町の町並

西包永町の町並

西包永町の町並

西包永町の町並

北小路町の町並
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