みなべ町の町並み
北道・南道・気佐藤
地図


北道の町並
 みなべ町は「梅と釣りと万葉のさと」と呼ばれるように梅を中心とした農業と加工業。釣りを中心とした漁業・水産業。そして観光産業で成り立っている。
元和5年(1619)和歌山藩が成立すると、家老安藤直次が田辺領主となり南部はその支配下になった。
今回訪ねたのはみなべ町中心地の北道・南道である。江戸時代は共に和歌山藩田辺領で、村内を旧熊野街道が通り、街道に沿って集落があった。宝暦10年(1760)の御上ヶ知南部組大指出帳によると、家数・人数は北道村116・578、南道村51・313とあり、北道村は鍛冶・紺屋・桶屋・船手稼を行うものがあり、南道村は商人多く鍛冶・大工・船手日用稼のものがいるとある。
紀伊続風土記では北道村169・897、南道村51・373とあり、南道村は田辺領の玄関口及び南部川上流への分岐点にも当たっていたので、人の往来も多く食料・衣料・日用雑記などの集散地としても栄えたとある。
江戸時代からこの地の特産は梅実で、江戸への回漕品として扱われていた。しかし南部の梅が全国に知られるような特産品になったのは「南高梅」が出だした、昭和30年頃からと言われている。
今、みなべ町の旧熊野街道に沿った古い町並を歩くと、伝統的な様式で本瓦葺きの商家の建物が一部残っている。中2階建てや平屋建てが多いのは、海岸に近く台風の被害が大きいためだろう。過ってはもっと多くの本瓦葺きの家屋があったと思われるが、建替えられたものは桟瓦葺きになっている。
町並み指数  40
参考文献
   和歌山県の地名  平凡社  下中邦彦  1983年
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和50


南道の町並

南道の町並

南道の町並

北道の町並

南道の町並

気佐藤の町並

気佐藤の町並

気佐藤の町並
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