三尾集落の海側には高い防潮堤が築かれている。紀伊水道に突出している岬状の地形である為、常に風波が容赦なく襲ってくる。津波の高波、台風の暴風などを防ぐために高い防潮堤が備えられているが、海岸近くは被害を恐れて土地が売れないそうだ。 江戸時代には三尾浦といい延宝6年(1678)の大差出帳(日高鑑)では家数112・人数524とあるが、幕末の「紀伊続風土記」では家数253・人数1150と大幅に家数・人数が増加している。 当地は山地が海岸近くまで迫り平地の少ない地形のため、耕地が拡張できなかったが、漁業の発達によって多くの人数を支えていた。 正保年間(1644〜48)には集団で千葉県の九十九里浜まで出向いてイワシ漁に従事する者まで現れた。地引網で漁をする海岸に恵まれないため三尾の漁民はいろんな網漁業を開発し、各地へ行って漁をするため、周辺漁村との漁場争論を起すことが多かった。 明治に入り、漁法・漁具の改良が進み、三尾の漁民は大阪湾から室戸岬・伊勢湾辺りまで網船を出して漁をするので、各地の漁船と激しい争いをすることになった。そして明治中期に大阪岸和田の漁民との壮烈な争いに敗れてから、急速に衰退していった。 一方明治20年三尾の工野儀兵衛はカナダに渡り、カナダでのサケ漁の有望さに着目し、その呼び描けで多くの人が移住した。その後も移民は第2次太平洋戦争まで続いた。 移民帰国者やカナダからの仕送りで、三尾ではアメリカ・カナダ風の洋風建築が建ったり、増改築されたり、生活習慣まで持ち込んだことからアメリカ村と称されるようになった。 今、三尾集落を歩くと際立ってアメリカナイズされた建物は極一部であるが、平屋建て本瓦葺きのどっしりした建て方が一般的な建て方のようだ。屋根は漆喰で塗り固められ、窓には雨戸の外側に板囲いが施されている。又軒先にも板囲いが備えられた家も多く、この地では暴風対策が一番重要なことのようだ。漁村独特の狭い道が迷路のように続き、歩いているとくるくる廻って何回も同じところに出てしまう。殆どの道は軽自動車も通れない道だが、中には何処から入ってきたのか判らない軽自動車が家の前に置かれていたりする。 和歌山県の歴史散歩 山川出版社 和歌山県高等学校社会科研究会 1995 和歌山県の地名 平凡社 下中邦彦 1983年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和50 |
三尾の町並 |
三尾の町並 正面の寄せ棟なんかアメリカの文化か |
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三尾の町並(家の正面が全て板囲いで覆われている) |
三尾の町並 左奥の建物がアメリカ帰りのものだろ |
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