大島港は天然の良港で、古くから避難港・風待港として賑わっていた。 大島集落は漁村と云うより港町、商業の町として栄えた。江戸末期編纂の「紀伊続風土記」には「廻船ここに泊して風候を待つ者常に十百群をなす、因りて村中旅泊の家多く生産優なり」とある。寛永元年(1624)大坂・江戸間に菱垣廻船の定期航路がはじまると、大島はその寄港地となり、次いで樽廻船の就航によって大島港は一段と重要視され多いに賑わうと共に、近隣浦々の鰹節や海産物は大島港に集められ廻船で大坂や江戸に輸送された。船宿も多く芸者の置屋もあったというし、女郎衆の悲話も残されている。 明治10年ころには船宿32・旅館6もあり歓楽地でもあった。 江戸期は和歌山藩領御蔵所。古座組に属していた。「紀伊続風土記」では家数144・人数656。古座組の年々組中在々人数増減調帳によると、家数・人数は文政3年(1820)129・598、天保15年(1844)146・680、安政6年(1859)160・728とある。明治10年の「地誌図書」では家数198・958とあり、農業18・商業30・船大工8・旅舎6・船宿32・漁業36・雑工4・雇い稼ぎ48・航師10とあり、漁業と商業が半々の港町であったことがわかる。 今町並を歩くと、漁村集落の光景が展開している。狭い路地のような道が迷路のように交差する。この道軽自動車が通れるのと思うが、奥に軽自動車が納まっている。海の対岸の串本と山の峰を見て方向を定めて歩かないと同じところばかりを歩くことになりそうな町並だ。そんな町並の中に、かっての船宿と思われる建物や、歓楽地にある建物とおぼしき建て方の家屋があったりする。同じ大島でも樫野や須江と違い、台風の風による被害が少ないようで2階建ての家も多く、風除けの高い石垣も殆ど見られない。 1999年の架橋により、京阪神から直接この地に来られるようになり、大島は釣宿・船宿を初めとして多いに賑わっていて、無住の家が少ないようだった。 和歌山県の歴史散歩 山川出版社 和歌山県高等学校社会研究会 1995 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 和歌山県の地名 平凡社 下中邦彦 1983 |
大島の町並 |
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