2005年4月に串本町と合併する前は古座町西向といい、古座川河口の右岸(西岸)で熊野灘に面し熊野街道が通るところ。元は古座川の東岸にあって古座浦と接していたが、流路の移動により古座浦から離れたという。 古座川河口に位置することから、古来木材・薪炭の集散地・商業港として栄え、製材業も発展していた。 江戸時代は紀州藩領御蔵所、古座組に所属。寛永21年(1644)郷組之事によると家数74・人数126、船数17・鉄砲7とある。紀州続風土記によると家数99・人数455。江戸期以来木材・薪炭・米・雑貨を扱う海運業者及び醤油醸造業が盛んで豪商も多かったと云う。 熊野水軍と呼ばれたものも漁労者の集団であった。万治2年(1659)に古座浦に紀州藩本藩の鯨方役所が設けられた。鯨漁で有名な近隣の太地浦は新宮領であった。銛を使用する突き漁が普及しだすと、地の利を得た古座浦の鯨漁が盛んとなった。 在地の人々に委託を中心とする太地浦と異なり、当地では鯨方役所が直接支配し、常に300人の水主を養って米300石が付けられていた。 その他の漁業は沿岸漁業が僅かに行われ、「南紀徳川史」によると、漁船3・えさとり船3・鰤網一帖・はや網一帖と記す。明治22年の家数460・人数2,584・大船16・小船81であり、西向村は商業と製材業を主とする商工業地域であった。 製材業は古座川上流の山々から筏により川を下り西向で陸揚げされ木材加工された。昭和に入った最盛期には600人もの労働者がいたが、太平洋戦争後のトラック輸送の発達に伴い、木材加工が田辺市方面に移り、今では一部の工場が残っている程度である。 今回訪ねたのは、かって西向浦と呼ばれていた所で、元熊野街道沿いの町並です。伝統的な様式の商家の建物が少しですが残っていました。平入り切り妻造りの建物で、平屋・中2階・2階建てとバラェテイに富んだ町並を構成していました。格子も取り外すことなくそのまま残した家も多く、短い距離の区間ですが見応えある町並みでした。 和歌山県の地名 平凡社 下中邦彦 1983年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和50 |
西向の町並 |
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