串本の古い町並は紀伊半島最南端潮岬の北東に位置し、目の前に大島が横たわっている。 江戸時代は和歌山藩領御蔵所、江田組の属していた。慶長6年(1601)の串本浦検地帳によると家数24・田畑17町余とある。慶安3年(1650)の古座組在々郷組之次第によると家数60。 江戸末期に編纂された「紀州続風土記」によると「東西両面に海をうけたれば、海事の利多くして漁者に富豪の者少なからず、潮風烈しき地なれば、戸々に寒竹を植えて各一区をしめ家居普通の漁村と異なり」と記されている。同じ「続風土記」によると家数350・人数1,442。 慶応3年(1867)の大差出調御達帳によると家数404・人数1,789・船数98・網数98とあり、江戸中期から後期にかけて急速に発展を続けた漁村であることがわかる。鰹漁が盛んで鰹節は江戸・大坂まで送られていた。 明治6年の家数422・人数2,091。同年の「地誌取調御達」によると廻船37・漁船75。 明治10年頃の串本村は家数451のうち農業50・漁業110・商業50・雑業251、人数は2,289とある。農産物は米・麦・蕎麦・甘藷など、海産物には鰹節・飛魚・あじ・細魚・うなぎ・マグロなどがある。 串本市街地の東側(大島側)は小明石浦といわれた景勝地で、白浜、遠浅の海は地引網の格好の漁場であり、潮干狩りや海水浴として賑わっていた。しかし大正5年から埋め立がはじまり、この埋め立て事業は昭和50年まで続けられ、埋め立てられた面積は36万uという。 今では埋め立てられた所に商店・住宅や各種の公共施設が建ち並んでいる。 町並を歩いても漁師町というイメージはなく、この地域の小さな商業地という感じである。それでも東側の浜から西側の浜まで500m〜700m程の間を歩くと漁村だった当時の面影や豪商の面影を残した大きな屋敷の建物が見られる。石垣で囲まれた家。ナマコ壁の家。昔ながらの大きな木の看板をあげた商家など、漁師町・商業地・街道筋の町といろんな顔を持った町であった。 和歌山県の歴史散歩 山川出版社 和歌山県高等学校社会研究会 1995 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 和歌山県の地名 平凡社 下中邦彦 1983 |
串本の民家(串本に有る2軒の豪商の内の一軒) |
串本の町並 |
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串本の民家(串本に有る2軒の豪商の内の一軒) |
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