紀伊半島最南端の串本町の市街地前に浮かぶ紀伊大島は、1999年の架橋までは船による交通だった。紀伊大島には大島・須江・樫野の三集落がある。今回訪ねた樫野集落は島の東部。海金剛と呼ばれる海食岸を荒波が打ち砕けているが、集落のある海食台地は比較的平坦でり、その中に集落や畑地が広がっている。 樫野は江戸時代は樫野浦といわれ、和歌山藩領御蔵所。古座組に所属していた。慶安3年(1650)の資料によると家数21・人数22・船5。江戸末期編纂の紀伊続風土記によると家数38・人数169とある。古座組の年々組中在々人数増減調帳によると、家数・人数は文政3年(1820)36・170、天保15年(1844)42.182、安政6年(1859)42.169とある。 集落は古く小字地下田(じげた)にあったが、現在地に移動して来たのは、天保年間(1830〜44)以前と云われている。(地下田が何処だか確認が取れなかった) 江戸時代初頭頃までは漁業より農業を主体にしていたようだが、徐々に漁業に進出していったようだ。鰹釣漁は寛永14年(1637)以降岬会合に所属して操業している。承応元年(1652)以降明治期まで、樫野浦地先の入会権(漁場争い)を、古座浦(古座町)としばしば紛争を繰り返している。 明治6年には家数42・人数210。明治10年の「地誌図書」によると、家数45・人数140で、農業8戸、農漁業兼業30戸とあり、圧倒的に漁業従事者が多かった。そして昭和25年でも世帯数147のうち漁業世帯数は117とあり、圧倒的に漁業者が多かった。 今でもこの樫野集落は半農半漁村だが、漁村とというイメージが全く無く柑橘類の産地として知られている。集落は海食台地の平坦な部分にかたまって位置し、山間部の農村集落という感じて有るが、台風銀座と言われるだけあって、高い石垣や生垣で低い平屋家屋の周りを囲っている姿は、沖縄県や鹿児島県の小さな島々の家屋と共通する屋敷構えである。過ってはもっと石垣が多かったのだろうが、今ではブロック塀が多くなっているのは、時代の流れで仕方ないことでしょう。 和歌山県の歴史散歩 山川出版社 和歌山県高等学校社会研究会 1995 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 和歌山県の地名 平凡社 下中邦彦 1983 |
樫野の石垣民家 |
樫野の石垣の町並 |
樫野の石垣の町並。昔は石垣ばかりだったが今では ブロックが多用されている |
樫野の石垣の町並 |
樫野の石垣民家 |
樫野の石垣民家 |
樫野の石垣の町並 |
樫野の石垣の町並 |
樫野の石垣民家 |
樫野の石垣民家 |