海南市黒江の町並み 
黒牛・市場・西の浜・南の浜・天王
地図


南の浜の「黒江ぬりもの館」と町並み
 紀州漆器の産地 海南市黒江は和歌山市の南に位置する。
黒江漆器のルーツは諸説あるが、室町時代末期、根来寺の仏具、什器に朱漆塗りが用いられていて、これを根来塗りと呼んだ。天正13年(1585) 秀吉の根来寺攻めで、四散した根来衆の一部が、黒江に安住の地を求めたのが有力のようだ。
寛永15年(1638)の「毛吹草」には黒江渋地椀が見え、元禄期ごろには黒江の「紀州椀」の名が見られる。
黒江の漆器業は江戸時代に盛んになり、紀州藩の保護を受け、陸海交通の活発化に伴い、市場は江戸や大坂、西日本にも拡大した。当初は渋地椀だけを製造していたが、享保年間(1716〜36)には春慶塗りの折敷業者が出現し、椀、折敷両方の発展期を迎えた。
更に文政年間(1818〜30)には、、膳類など新しい本堅地板物漆器も製作し、製品は多様化すると共に、安政年間(1854〜60)には蒔絵による装飾も導入された。また、安政6年(1859)の開港後長崎や神戸の外商との直売取引によって漆器の輸出が開始され、幕末期には全国有数の漆器産地として飛躍的な発展を遂げた。
江戸初期から和歌山藩領で終始し、享保4年(1719)の大指出帳写では家数870軒・人数3660人であった。天保10年(1839)の「続風土記」によると戸数868軒・人数3698人で村内は六つの小名に分かれ、北の町・南の浜・西の浜・古屋敷・市場町と云ったと言う。そして江戸末期には約4500人を擁する町場となっていた。
町並は川端通りの東部の突き当たり、黒牛の造り酒屋・市場・北の丁三辺りが、黒江の中で一番重厚な町家が並ぶ地域である。造り酒屋は入り母屋造り、本二階建て、平入り、桟瓦葺、黒壁、連子格子、駒寄せであった。この辺りの伝統的で重厚な商家の建物は切り妻造り又は入り母屋造り、平入り、本瓦葺、中2階建て、黒壁、連子格子が一般的なようであった。
川端通りは紀州連子の格子、中二階や本二階の家構え、切り妻造り本瓦葺の大屋根、庇、漆喰塗りの真壁に焼板張りの外壁、そして農家的な間取りと、漆器の黒江には江戸時代末期以降に普請された伝統的な町家が軒を並べ、古風で落ち着いた雰囲気を醸し出している。
川端通りの北側の二筋と、南側の二筋の道路は狭くて、軽自動車も通れない位であり、ノコギリの歯のように、家並みが道路に対して約30度程斜めに構えている。だから各家の玄関前に申し合わせたように、三角形の空地ができている不思議な町並みだ。
黒江の町全体は職住一体の生活共同体を形成し、職種別に町区が形成されてきた。問屋層は材料や製品の流通に便利な、港や堀川に臨む川端通りなどの表通りに、職人層は作業の連帯的一体化の条件から裏通りに、それぞれ集中して町区を形成し、町家の家並みを見せている。
一般的に古い町並みでその名を知られている町は、整然とした印象が強いものだが、ここ黒江は雑然とした印象が強烈であった。家と家がギッシリと詰まっていて、そのうえゴチャゴチャとした情景は、町全体が路地裏の風景のようだが、汚いというのではなかった。
町並み指数 60
参考文献     
  関西 小さな町・小さな旅  山と渓谷社  山と渓谷社大阪支局  1997年
  和歌山県の歴史散歩  山川出版社  和歌山県高等学校社会科研究協会 1995
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和60年

黒江ぬりもの館辺りの町並み

南の浜の町並み

南の浜の町並み 

南の浜の町並み

北の丁三の町並み

黒江ぬりもの館
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