九度山町の南海電鉄高野線の九度山駅の北西約1kmに慈尊院がある。この慈尊院は空海が弘仁7年(816)に高野開山のおり、山麓の拠点として開かれたものである。中世までは「高野政所」とも呼ばれて、高野山の玄関口として、高野山の発展とともに整備され、高野山経済の要として重要な位置を占めていた。 しかし、江戸時代に入ると木食応其により、橋本から同市学文路を南に登り、河根を経る参詣路が整備され、以後はこの道が表参道として栄えた。 当地の江戸時代は高野山行人領で、天保年間(1834〜43)の「紀伊続風土記」によると、家数280軒・人数1,124人と記されている。また同書によると、近郷より諸物資が集まって交易の地であり、商家が東西に軒を連ね市街を成し、又、高野山に建てる石碑等を運ぶ賃雇をするものも多く、婦女は縞木綿を織り真田紐を打って、農閑期の余業としていたと記され、その繁栄ぶりが伺える。特に紀ノ川の物資集散地としては、材木がこの地に集められた。 明治6年には戸数361軒・人数1,494人で、商業70軒・農業200軒・雑業110軒であった。 明治34年に現高野山口町名倉に紀和鉄道(JR和歌山線)名倉駅(直ぐに高野口駅と改称)が開設されたことにより、名倉−紀ノ川−九度山−椎出の新高野街道が利用され、当地も高野参詣の新しい道筋をして栄えるようになった。 大正時代の後半には、自動車道が高野山まで通じ、大正末期から昭和の始にかけて南海電鉄高野線が極楽橋まで開通・高野山までケーブルの開通で、紀和鉄道の開通による新高野街道の繁栄は終止符を打ったのである。 今、九度山地区の旧高野街道沿いには、江戸時代から明治にかけて、物資集散の地として栄えていた当時の面影が色濃く残っている。 自然発生的に緩やかに曲がった街道。その両側には入り母屋造りの民家が連なる。 町並みは、商家が多く存在していたとはいえ、農村地帯であったので切り妻造りの商家の建物が連なっているのではなく、大きな入り母屋造りのどっしりと構えた建物がゆったりと並んでいる状態だ。町並みを構成している古い伝統的な建物は交易の地として栄えていた江戸後期から明治中期位に建てられたものが多いようだ 紀ノ川を挟んだ北側の高野口町の高野街道沿いの建物が明治末期から、大正時代に建てられたのと時代が大きく異なっている。町が発展した時代を如実にあらわしている。 和歌山県の歴史散歩 山川出版社 和歌山県高等学校社会研究会 1995 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 和歌山県の地名 平凡社 下中邦彦 1983 |
旧高野街道沿いの九度山の町並み |
旧高野街道沿いの九度山の町並み |
旧高野街道沿いの九度山の町並み |
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九度山の町並み |
九度山の町並み |