高野山の開山は弘仁7年(816)空海が嵯峨天皇から認められて寺院を開いたことに始まる。 当時、高野は紀伊国伊都郡にあって、人跡未踏の平原の幽地とされている。 高野山伽藍の建設は、空海がその後半生をかけた大事業であったが、工事は困難をきわめ、中心建物の大塔が完成したのは、空海の死後50余年経った頃であった。 江戸幕府は高野山の勢力が強大になるのを恐れ、高野三派の分断政策もその一つで、元禄7年(1694)学侶方と行人方に争いがあり、幕府の裁定で行人方は630人の遠島者と約900ヶ寺が取り潰され、その勢力が削減された。これを元禄聖断という。 幕末期の状況は「紀伊風土記」によれば、学侶方353ヶ寺、行人方281ヶ寺、聖方84ヶ寺・宿坊56とある。 明治2年に高野三派が廃止され現在の総本山金剛峯寺が設けられ、明治5年には女人禁制が解禁された。明治21年に高野山で大火があり、これを契機に山内寺院の統廃合が行われ、明治24年に130ヶ寺となった。現在は名跡のみの寺院を含めと118ヶ寺を数え、そのうち宿坊は53ヶ寺である。 町家については、山上に住む僧侶以外の人については、既に久安3年(1147)の文書に仏師や大工の名が記載されている。近世初期までは商人化した行人や聖の一部が日用品を用立てていたが、俗人の専門的な商人や職人が急増したのは元禄7年(1694)の元禄聖断以降である。しかし彼らは自分の家屋敷を持つことが許されず、寺院の長屋を借りて居住した。 「続紀伊風土記」によれば,天保年間(1830〜44)頃にはこうした家が200余とも300余軒あり、職種も46種類あり山上で無いのは魚屋位であったという。 明治維新の藩籍奉還により、寺領返還で高野山の各寺院は経済的困窮に追い込まれ、廃寺や離山僧が続出した。維新当時の680ヶ寺が明治17年には431ヶ寺に減少している。 そして明治21年の大火後に寺院の統廃合により130ヶ寺になったのは前述の通りであるが、その廃寺跡に自分の家を建てる者が多くなり、また、麓の村人が登ってきて新しく店を開くものも出てきた。こうして明治20年代になって寺院の間に町家が並ぶ山上の町の原型ができあがった。そして昭和9年弘法大師千百年忌のとき、大規模な区画整理が行われ、現在の町並となった。 今、町並を形成しているみやげ物屋の多くは、金剛峰寺前から奥の院入口の一の橋までの間にひしめいている。どの店の参詣客や観光客の食事からみやげ物まで店一杯に並べいる。 これらの町家は昭和に入ってからの建物が多いようで、多くは木造の2階建てであるが、中には木造に似せた3階建ての鉄筋コンクリートの家もある。そんな中で老舗の数珠屋四郎兵衛は唐破風の屋根を採用した寺院のような建物だった。 和歌山県の歴史散歩 山川出版社 和歌山県高等学校社会研究会 1995 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 和歌山県の地名 平凡社 下中邦彦 1983 |
高野山の町並み |
数珠屋四郎兵衛 |
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