高野山への参詣は、平安時代から盛んになった。参詣路は大和あるいは和泉経由で紀ノ川の川船を利用して政所に至るケースが多いが、紀見峠から名古曾や伏原を経由して紀ノ川を渡って、高野政所(参照九度山町の町並み)から登山する場合もあった。 江戸時代には、このルートでの高野山参詣は殆どなくなったが、和歌山と大和や伊勢を繋ぐ大和街道が通り、発展を続けていた。そして明治34年の紀和鉄道(現JR和歌山線)の開通で再び高野山への表参道として注目を集め、大和街道と高野街道の交差する町としても発展した。 江戸時代の当町域は和歌山藩領であった。その中心部の名倉村は和歌山藩領知行所中組(学文路組)に所属していた。 名倉村の延宝5年(1677)の禿組指出帳控によると、家数188軒・人数1,055人であった。 天保年間(1834〜43)の「紀伊続風土記」によると、家数277軒・人数852人と家数は増加しているが、人数は減少している。明治6年には家数304軒・人数1,203人であった。 明治34年に紀和鉄道の名倉駅が設置され、急激に人口が増加した。明治42年には家数495軒・人数3,207人となっている。 名倉には奈良・伊勢と和歌山を結ぶ大和街道が通り、古くから開けていたが、高野参詣路として栄えたのは鉄道が開通してからで、明治末から大正時代にかけて、人口が急激に増加した時の町並みが残っている。 切り妻造りの2階建て、平入りの町並みが各所に残っているが、同じ高野参詣路の九度山町の町並みと、建築年代の差が歴然と表れている。 簡単な表現で言い換えれば、高野口町は大正時代の建築、九度山町は江戸時代後期から明治中期までの建築である。 和歌山県の歴史散歩 山川出版社 和歌山県高等学校社会研究会 1995 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 和歌山県の地名 平凡社 下中邦彦 1983 |
大和街道沿いの名倉の町並み |
大和街道沿いの名倉の町並み |
大和街道沿いの名倉の町並み |
大和街道沿いの名倉の町並み |
高野街道沿いの名倉の町並み |
名古曾の町並み |