高野町富貴の町並み
西富貴・東富貴
地図


西富貴の町並
 和歌山県橋本市街の南西約10km・奈良県五條市の真南約10kmの小盆地に位置するが、標高は550m〜600mもある高冷地である。
古くからの高野山領で、天正19年(1591)・慶長10年(1605)の記録にも高野山領として記載されている。早くから東富貴村・西富貴村として分れていたが、行政上正式に分れたのは江戸後期と云われている。
「続風土記」によると東富貴村は高242石余、家数59・人数344。西富貴村は高233余、家数50・人数293とある。また同じ続風土記には土地は平坦だが高地で北を向いていて、寒風烈しく陽気薄くて諸物出来がたく、余業とするものなき故に薬草を植えて生産の助けとしていると記している。
同続風土記には街道について、富貴を過ぎて水呑峠より天ノ河辻に至るを橋本辺りより熊野へ行く道筋と記され、古くからの熊野詣での道筋であった。
東富貴村では明治6年には家数96・人数585。明治24年には家数145・人数647となり、昭和33年の家数262・人数1,286。平成20年頃では家数170・人数388とある。
西富貴村では明治24年には家数127・人数514。昭和33年の家数147・人数658。平成20年頃では家数107・人数229とあり、典型的な過疎集落である。
このような山中にと思えるほど、山間僻地であるが、結構立派な町並みがあった。
橋本や五條から熊野へ向かう街道筋の宿場町・在郷町として機能していたと思わるる町並みが今に残っている。平入り切り妻造りの平屋建て・中二階建て・二階建ての家々が連なる。一部では都会地のように軒が連なった地域もあり、繁栄していて時代の名残を今に残している。只東富貴の町並みは昭和23年の大火災後に建てられた町並みであるが、
伝統的な様式を守った建築方法が取られていて、今に古い様式の町並みを残していた。
町並み指数 40
参考文献    
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和60年
   和歌山県の地名   平凡社   下中邦彦   1983年

西富貴の町並み

西富貴の町並み

東富貴の町並み

東富貴の町並み

東富貴の町並み

東富貴の町並み

東富貴の町並み

西富貴の町並み
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