粉河寺は奈良時代の宝亀元年(770)の創建と云われているが勿論定かでない。 平安時代、清少納言の「枕草子」には「寺は石山・粉河・滋賀」と書かれているように、古くからの古刹であった。平安末期以降も貴族の粉河寺参詣が多く見られのは、高野山への参詣とセットとなっていた様である。 室町・戦国期には貴族に代わって、西国三十三ヶ所霊場めぐりの高まりと共に、庶民の崇敬をあつめ、その上強力な自治軍団を形成し隆盛を極め、坊舎の数550とも云われた。しかし天正13年(1585)豊臣秀吉の紀州攻めに敗れ、根来寺とともに焼き払われてしまった。 江戸時代になると、和歌山藩の保護を受け、門前町は紀の川筋を代表する町場となり、粉河酢をはじめとして鋳物・うちわ・こんにゃくなどの特産地であった。この地には紀の川の北岸を通る大和(伊勢)街道と、その北部の山裾には、加太から葛城山麓沿いを根来を経て当地に至る淡路(根来)街道が通り、紀北一帯の物資の集散地ともなった。 この内、粉河酢に付いては江戸初期には室屋が独占的に営業、藩の御用酢をつとめた。粉河酢の生産高は寛政年間(1789〜1800)ごろ室屋が1500石程度、文久3年(1863)では麹屋が1200石位であり、室屋は酢のほか酒造も盛んに行っていた。室屋をはじめとした粉河の商人は屋号をつけて活発に商業活動を行っていた。 粉河村は粉河寺の門前町として発展した。江戸末期の「紀伊続風土記」によると、家数869軒、人数4507人であり、明治6年には家数829、人数3491であった。 明治33年に和歌山への鉄道が開通し、粉河駅と粉河寺を結ぶ参道が市街地として開け、多くの商家が建ち並び活況を呈していたが、近年道路拡張により、多くの商家の建物が取り払われ、昔の面影は全くなくなってしまったのは惜しまれる。 表の参道には、ビルが建ち並んでいるが、参道と交差している旧根来街道沿いには僅かに古い町並が残っていた。表の参道が拡張されて商家の主屋があった辺りにはビルが建っていたが、その奥の土蔵などはある程度残っていて、裏側の路地などを歩くと、古い商家の建物や商家の土蔵が健在であって、古い町並の景観を保っていた。 和歌山県の歴史散歩 山川出版社 和歌山県高等学校社会研究会 1995 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 和歌山県の地名 平凡社 下中邦彦 1983 |
参道から山門を望む |
参道から入った路地 |
参道の町並み |
旧根来街道の町並み |
参道から外れた商家 |
路地裏の商家の建物 |