麻生津(おうず)は紀ノ川の河港として古くから水上交通の要地であった。江戸時代には北脇・西脇・中・横谷・赤沼田の五ヶ村を麻生津荘といった。その内今回訪ねたのは北脇村(今は北涌)と中村(麻生津中)である。両村とも江戸時代は高野山領であった。 北涌村は天保年間編集の「紀伊続風土記」に家数74軒・人数301、小名に茶屋町がある。又、「茶屋町又笹江町ともいふ、往還なり、川辺にて運漕等よろしく商家多く出来り旅舎ありて市街の姿をなせり」と記され、紀ノ川水運があり、名手の渡で当村へ渡る高野街道に沿うなど、交通の要衝であって、紀ノ川の河港として早くから開けていた。貞享5年(1688)の「御改帳」にはささえ町(茶屋町)35軒とある。明治6年には家数86・人数374とある。 中村は「続風土記」には家数52・人数226とある。 大和街道から分岐した高野街道が紀ノ川を名手の渡しで渡り、麻生津から麻生津峠を経て高野山に向っていた。 麻生津役場文章によると、寛永14年(1637)にも果樹がかなり植えられているが、明治19年・大正11年の地形図を見ると、果樹園が次第に拡大されていることが判る。そして今でも主な産業は密柑栽培である。 今町並を歩くと、北涌町の茶屋町と称される辺りに、古い伝統的な家屋が連なる。今でも昔のように営業されている家もあるが、殆どは店を閉められていた。中2階建ての切り妻造り平入りの建物で、袖壁を備えたもの、煙り出しを残した家など多彩な様式の家が連なる。その一角に「右高野山大門五里」という古い道標が立っていた。この辺りまで高野街道は平坦地だったが、 麻生津中に入ると、一気に坂道になる。軽自動車がやっと通れる位の道が麻生津峠に向って延びている。急傾斜地だから伝統的な様式の家が連なることはないが、古い様式の家が続いていた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 和歌山県の地名 平凡社 下中邦彦 1983年 |
北涌の町並 |
北涌の町並 |
北涌の町並 |
北涌の町並 |
北涌の町並 |
麻生津中の町並 |
麻生津中の町並 |
麻生津中の町並 |
麻生津中の町並 |
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