紀ノ川の北岸を奈良時代には南海道、中世に紀伊大路と呼ばれた大道が通っていた。近世も大和街道が東西に走り、本陣も置かれた宿場町として発展した。現代は国道24号線にほぼ相当する。 江戸時代には市場村といい、和歌山から一日行程の地に位置し、伝馬所が置かれ妹背家には名手本陣役が与えられていた。同家は寛永16年(1639)から大庄屋を勤めている。 本陣は通例大名の宿泊所だが、紀州では他藩の大名が公式に通過することないので、紀州で本陣と言えば名手本陣(妹背家)と橋本本陣(池永家)であった。 記録によると、市場村の慶長期の屋敷数61軒、鍛冶・石屋・桶屋・大工・紺屋などの職人が多かった。宝永7年(1710)の覚書には家数158軒とあり、寛政8年(1796)の商人・職人名前書によると、水茶屋1・小間物屋4・油商2・酒小売2・宿屋3・鍛冶2・米小売4など商人・職人の家数合わせて31軒に及んでいる。 文化12年(1815)の記録によると、借家・賭博・喧嘩・口論に関しても具体的で、くわえ煙草などの火の用心に関する定めもあり、これらは町場特有のもので、一般の農村と異なる特徴が伺える。「続風土記」には「此村商売多く古より此地にて常に市を為し‥‥‥今も除夜には近郷より集まりて市をなすといふ」と見え、家数124軒・人数435人とある。 明治34年紀和鉄道(現JR和歌山線)の名手駅が開業し、貨物本位の駅となり柑橘類の出荷は莫大な額になった。そして名手市場は在町として一層発展した。当時10軒に余る宿があり、商用・行商のほか、高野山や槙尾山への参拝客に利用された。 今でもその繁栄時の建物が連なり、伝統的な古い町並を形成している。中2階建と2階たての建物、切り妻造りと入り母屋造りが混在するが、かっての繁栄を偲ばせる光景だ。妹背家の名手本陣も修復整備されて公開されている。 和歌山県の歴史散歩 山川出版社 和歌山県高等学校社会科研究協会 1995 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 和歌山県の地名 平凡社 下中邦彦 1983年 |
名手市場の町並 |
名手市場の町並 |
名手市場の町並 |
名手市場の町並 |
名手宿本陣の妹背家の主屋 |
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