橿原市というと、今井町があまりにも有名で、その蔭に隠れてしまっているが、今度初めて今井町の隣町の八木を訪れてびっくりした。今井町同様の商家が連続しているではないか。驚きの一瞬である。 八木町は古くから奈良盆地を南北に結ぶ幹線道の中街道(下ッ道)と奈良盆地の南部を東西に走る伊勢街道(横大路)の交差する辺りを中心に発達した。この辺りを「札の辻」と呼ばれ、中世から「八木市」が開かれ、南大和の物資の集散地として繁栄し、江戸時代には高札場になっていた。 八木は伊勢街道の北側は十市郡、南側は高市郡に属する郡境にあたり、近世には北側の北八木ははじめ幕府領、元和5年(1619)から郡山藩領、延宝7年(1679)から幕府領、文政9年(1826)からは高取藩領であったが、南側の八木は最初から高取藩領であった。 しかし、所領が異なっても、市街として一つの集落として発展した。近世中期以降は伊勢参詣、西国三十三ヶ所巡礼、高野詣でといった人々の往来が増加し、街道筋の宿場町としても発展した。 横大路に沿って西側には高田・今井、東側に桜井といった町が存在したため、八木は中街道に沿った商圏を拡大させて、奈良盆地南部の中心地としての機能を蓄積していった。 江戸時代の八木は商工業者や旅篭屋が多く居住して活動した町であった。例えば文政2年(1819)の記録によると、旅篭屋・茶屋4軒、酒造2、醤油味噌2、青物類5、豆腐こんにゃく2、菓子類2、綿打職4、、絹類売人3、紺屋1、小間物売人2、荒物売人3。 天保13年(1842)北八木では旅篭屋5、酒造1、醤油屋2、請売酒屋1、絞り油屋2、米屋商売5、魚類3等とさまざまな職業の人々が居住していた。 今、町並みは近鉄大和八木駅の東側、国道24号線の東側に南北にある旧中街道に沿って残っている。北から北八木町・八木町・南八木町と続き、主だった町並みは北八木町の近鉄大阪線の踏み切りから、南はJR桜井線の畝傍駅近くのJRの踏切り(八木町と南八木町の境)までである。 町並みを構成する商家の建物は、隣の今井町の建物と全く同様な建物であるが、こちらの方は今井町と違って保存地区の保護が無いためか、屋根瓦の本瓦葺きの民家は少なかった。 切り妻造り平入り、本瓦または桟瓦葺きの中2階建て、中2階の壁面は漆喰塗り込めの虫籠窓、大屋根には煙だし、格子、出格子、袖壁をつけた家屋も見かけられた。 今井町が重要伝統的建造物群保存地区に指定されているが、同じような建物で、同じように建っているこの八木が何ら保存の対象となっていないように見受けられる。今井町の町並みは保存が進み、開発から遠のいたので、無住の建物も多いが、八木町は現役の家屋で、見た限りでは無住の家屋は無かった様に思う。それだけに保存するなら今のうちに手をうたなくてはならない。 YouTube2 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1990年 奈良県の歴史散歩下 山川出版社 奈良県歴史学会 1993年 |
橿原市北八木町二丁目の町並 |
橿原市八木町三丁目の町並 |
橿原市八木町三丁目の町並 |
橿原市八木町三丁目の町並 |
橿原市八木町三丁目の町並 |
橿原市八木町三丁目の町並 |
橿原市南八木町二丁目の町並 |
橿原市南八木町二丁目の町並 |
橿原市北八木町一丁目の町並 横大路(伊勢街道)と下ッ道の交差点 |