今井町は堺などとともに、日本の町としては珍しい自治都市として発展してきた 戦国時代の天文年間(1532〜1555)、一向宗(真宗)本願寺の家衆今井兵部によって、称念寺の前身である道場が建てられた。一向宗徒が集まり寺域の周囲に環濠を巡らした寺内町であった。また独自の軍隊を組織して町の防衛にあたり、絶大な軍事力をもった今井寺内町ができあがった。 元亀元年(1570)になると織田信長と本願寺との間に戦いが起こり、今井も矢倉を築き、濠を深くして合戦に備えたが、天正3年(1575)に今井は明智光秀を通じて、信長に降伏したが何の咎めもなく、権力の介入を招くことはなかった。 秀吉の時代になると今井は優遇され、大坂や堺との交流も多くなり商業都市へと変貌していく。町筋はおおよそ碁盤目状であるが、各所に突き当たりや食い違いをつけて遠見を防ぎ、弓矢、鉄砲の射通しを不可能にし外敵の進入を防ぐ町割をした。 江戸時代に入り南・西・東・北・今・新町の6町の町割りがあり、中世の土居を残す環濠集落であった。元和年間(1615〜24)には称念寺の今井兵部・今西・尾崎・上田といった町の有力者が惣年寄役を預かった。 延宝年間(1673〜81)の家数1082軒・人数4400人。正徳4年(1714)の家数1000軒・人数4400人。宝暦10年(1759)の家数912軒・人数3444人であった。 五代将軍徳川綱吉の延宝年間(1673〜1679)の頃になると幕府の体制も整い、もはや治外法権的な寺内町の存在(特権)は許されなくなり、兵部は釈門に帰り今井の町は幕府領となって、惣年寄が自治制度を守った。 前述の惣年寄の4家が六町の町年寄を支配して町を治めた。惣年寄には死罪を除く司法権、警察権が与えられた。 今井の町はこうして寺内町の特権こそなくなったが、商業都市として益々隆盛をきわめ、元禄期(1688〜1704)には最後の繁栄期を迎え「大和の金は今井に七分」と言われるほどになった。今井札は全国に通用するほどの高い信用度をもっていた。 しかし、今井町の繁栄もこの頃までで、やがて衰退の一途をたどり明治維新を迎える。諸大名がつぶれ、武士が俸禄をはなれたため、その貸金が無効となり今井町は大打撃を被った。 現在も今井町環濠内の民家約750棟のうち、伝統的様式を残す建物が、今西家をはじめとして、約500棟あり、その中に国の重要文化財八棟、県文化財二棟、市文化財四棟がある。それも単に保存されているだけでなく、今も住民が生活している生きた町であり、他に例を見ない貴重な文化遺産である。 今井町の商家の構えは、切り妻造り、平入り、正面に格子、板戸があり、本瓦葺の低い中二階建て、中二階の壁面と本屋の軒裏を白漆喰で塗り込めてあり、虫籠窓をつけ、本瓦葺の大屋根に煙り出しの小屋根を付け、駒繋ぎの環を残している。これが町並みを形成している外観である。 今井町の代表的な家屋は今西家(国の重要文化財)。「八ッ棟造り」といわれ、重ね妻の棟数の多い建物で、民家というよりも城郭を思わせるものだ。慶安3年(1650)に建築された建物で、今井町では最も古い民家。代々今井町の惣年寄筆頭を務めた家柄で、広い土間の上部には「いぶし牢」と呼ばれる拷問部屋が残っていて、自治の凄さをおもい知ることができる。常時一般公開されているのは、旧米谷家(国の重要文化財)。金物・肥料商であった商家を解体修理して、昭和50年から公開しているもの。 国の重要文化財に指定されている民家を列記すると。高木家・河合家・旧米谷家・音村家・上田家・中橋家・豊田家・今西家の8軒である。 奈良県の歴史散歩下 山川出版社 奈良県歴史学会 1996年 歴史の町並みを歩く 保育社 高士宗明 平成6年 関西小さな町・小さな旅 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 1997年 歴史の町並み事典 東京堂出版 吉田桂二 1995年 町並み・家並み事典 東京堂出版 吉田桂二 平成9年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1990年 |
造り酒屋の上品寺屋(屋号) |
惣年寄筆頭の今西家、八棟造り |
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旧材木商の紙八(屋号) |
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