二上山の北を越える穴虫越えは、河内から大和に入る古代の主要道であった大坂道と考えられている。古代の官道の竹内道の補助的な性格を持っていたようで、道沿いに当麻寺・石光寺・加守廃寺などが立地するなど、古代にはかなり重要なルートであった。 しかし、竹内道に比べて道標・石仏が少なく、近世期の利用はさほど多くなかったようだ。 穴虫村の江戸初期は幕府と近江小室藩の相給。元和5年(1619)郡山藩と小室藩の相給を経て、天明8年(1788)からは郡山藩と幕府の相給。この内、郡山藩領は享保9年(1724)和州御領郷鑑によれば、家数25・人数92。明治15年頃の穴虫村の家数167・人数771とある。 この地の特産として、研磨用の金剛砂の産地で、これを用いた研磨布紙や砥石製造業が穴虫を中心として行われていた。 延享期(1744〜48)から古百姓と称する一部のものが村座をつくり、座外のものが「けいちん講」をつくって対抗し、村役人選出・村政・神社の普請・婚礼などで村方騒動に発展した。代官小堀権右衛門が安永8年(1779)に、文政10年(1827)には代官小堀主税によって、仲裁がなされ村座は穴虫村忠兵衛方、座外は穴虫村新兵衛方と決められ、和解が成立したが対立は続いた。天保7年(1836)の御制法五人組帳によると新兵衛方は45軒からなっていた。 今、集落内を歩くと、2mにも満たない狭い道路が集落内を通っているが、これが大坂と大和を結ぶ幹線道路だとはとても思えない。しかし、この農村集落で、この細い道に沿って商家の形態をした建物が多くあることから、江戸時代から明治にかけては街道筋だったことが伺える。 江戸時代には竹内街道の補助的な街道筋だったのだろう。豪農的な入り母屋造りの建て方と商家的な切り妻造り建て方の入り混じった、集落の風景である。 勿論、大和棟の家屋も大和地方独特の大棟の一部が下がった家屋も混在し、集落に入ると裕福な集落だなあとの印象を受ける。 奈良県の歴史散歩下 山川出版社 奈良県歴史学会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1990年 奈良県の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 |
穴虫の町並 |
穴虫の町並 |
穴虫の町並 |
穴虫の町並 |
穴虫の町並 |
穴虫の町並 |
穴虫の町並 |
穴虫の町並 |