根来の地名は明治22年に根来寺の門前町西坂本村を中心に8ヶ村が合併して根来村が成立したもので、地内に根来寺があることにちなんで付けられた。 根来寺は高野山にあった覚鑁(かくばん)上人(興教大師)の開いた伝法院を、根来に移したのに始まる。 覚鑁上人が高野山で大伝法院座主と金剛峯寺座主を兼務するようになり、高野山全体を支配下におく勢いを示し、金剛峯寺の本山である東寺から独立を策したため、金剛峯寺衆徒を中心とする反覚鑁勢力によって、保延6年(1140)高野山を追われて、下山したが康治2年(1143)に覚鑁が亡くなり、覚鑁派の衆徒の多くは高野山に帰山したが、高野山ではその後も大伝法院・金剛峯寺両衆徒の対立、紛争が絶えず正応元年(1288)になって、大伝法院衆徒は根来の地に移り、高野山から分離独立した。 室町・戦国時代になると、これらの衆徒(行人方)は僧兵として軍事訓練され僧兵集団が各地の戦闘に参加した。畠山氏の内紛で畠山義就を攻撃し、鉄砲伝来とともに鍛冶技術を取り入れ、強力な鉄砲隊を擁するようになった。その数は8000人〜10000人いたと思われる。 天正12年(1584)小牧・長久手の戦いで雑賀衆とともに傭兵として徳川家康と組んだため、翌年の天正13年(1585)豊臣秀吉の紀州攻めにあい、根来寺は大塔・大伝法院・大師堂を除く堂舎全てが焼失した。 西坂本村は根来寺に登る坂の麓にあることにちなみ、東坂本に対して西坂本という(紀伊続風土記) 根来寺のある西坂本村は江戸時代には、和歌山藩領御蔵所、山崎組に所属していて、村高は慶長検地高目録では1433石余り、「天保郷帳」では146石余り、江戸末期の「紀伊続風土記」では家数190軒、人数671人である。 紀ノ川の北岸を通る大和(伊勢)街道から分かれて北上し、風吹峠越えで和泉国に向かう根来往還と、加太から続く葛城山麓に沿った、淡路街道とが交差する交通の要衝でもあった。しかし根来寺の門前町として栄えていたのは根来寺が繁栄していた室町・戦国時代であった。 西坂本村は江戸時代になれば、根来寺の門前町だが農村地帯となり、東坂本村は面影すらなくなってしまった。 今は根来寺の大門から旧西坂本(根来)の古い家構えにかっての門前町の面影を少し留める位である。殆どの家は建てかえられていたが、明治期から大正時代に建てられた家も多く、そんな中に町指定文化財の長屋門を持った金田家があった。この長屋門は寛政9年(1797)頃建築されたもので、当時の豪農の威勢を思わす。 町並を構成する建物は明治期の建物は切り妻造りが多い様だが、大正期以降に建てられたものは入り母屋の 2階建てが多い様であった。 和歌山県の歴史散歩 山川出版社 和歌山県高等学校社会研究会 1995 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 和歌山県の地名 平凡社 下中邦彦 1983 |
根来の町並み |
根来の町並み |
根来の町並み |
根来の金田家の長屋門 |
根来の町並み |
根来の町並み |