この地は鎌倉期から法隆寺門前郷として東郷・西郷の両郷が都市的発展を遂げて発展していたが知られている。 平安後期には「寺内南倉町」「西里」などの名が現れ、中世的な門前町を形成していたようである。久安3年(1147)には法隆寺南大門前の道幅を広げるなど、法隆寺と龍田とを結ぶ道の拡幅工事が進められている。 江戸時代に入り、慶長6年(1601)龍田藩(片桐且元)領となり、寛永15年(1638)から幕府領となり明治を迎える。 法隆寺村は法隆寺の門前町的な様相をみせ、寛永16年(1639)の卯歳分御物成之覚では東方・長助方・清右衛門方・町屋敷方に分割して年貢を徴収している。これらはそれぞれ東方は東里方、長助方は大工方、清右衛門方は西里方、そして町屋敷方であった。 延宝6年(1678)の検地を契機に法隆寺村は四つの株(久保・出垣内・百姓・大工)に分かれ、それぞれに村役人を置く株分け村落であった。この株は一定の領域を持たず、所領の田畑屋敷み入り乱れ、村方取締りが乱れる原因にもなり、文政3年(1820)にはこの組替えを願い出ている。 元文2年(1737)大和国平群郡法隆寺村指出帳では、家数596軒・人数2,197人。天保9年(1838)の家数362軒・人数1,524人であった。 東里は法隆寺の東門前から東院(夢殿)周辺の地を東里といい、西里とともに法隆寺を支える人々の生活する集落であって、東里や西里には法隆寺作事に携わった大工が住んでいたらしい。 今、東里(法隆寺一丁目・法隆寺北一丁目)辺りは、細い道に沿っての土塀や河内・難波への交通路の旧街道と思われる道に沿っては広大で重厚な民家の建物が続く。勿論武家屋敷でもなければ、農村集落でもない特殊な集落形態を保った町並みである。法隆寺の境内は観光客で溢れているが、一歩境内を出て門前の大きな通りから外れると、落ち着いた伝統的な商家の建物が連なる町並であった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1990年 奈良県の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 |
法隆寺二丁目 |
法隆寺一丁目 |
法隆寺一丁目 |
法隆寺一丁目 |
法隆寺一丁目 |
法隆寺一丁目 |
法隆寺一丁目 |
法隆寺一丁目 |
法隆寺二丁目 |
法隆寺北一丁目 |