広川町広の町並

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広の町並

 広川町広は和歌山県西部、紀伊水道湯浅湾に面し広川河口左岸に位置する。
江戸期は和歌山藩領御藏所。広村の村高は慶長検地高目録では1,393石余、「天保郷帳」「旧高旧領」では共に1,452石余。安永2年(1773)の大指出帳では村高1,397石余、家数448・人数1,881、船数16。「続風土記」では、家数529・人数1,953とある。
慶長検地の時には既に広は湯浅と共に町が成立していた。室町期の守護畠山氏が広城を築き、室町末期から戦国期にかけて広に守護所ができ町割りがなされていた。防波堤も築かれ港として整備され、廻船や出稼ぎ漁の根拠地となっていた。出漁地は西は瀬戸内海から九州五島の近海、東は相模から房総の諸浦まで進出したという。
広浦漁民の出稼ぎや移住は江戸期も続いた。関東方面では相模・房総・常陸で漁場の開拓発展に寄与した。中でも崎山次郎右衛門が明暦2年(1656)銚子外川漁港を開発したことは特筆すべきである。九州五島方面への進出も同様で、長期にわたって顕著な成果をあげている。
また、地場産業として湯浅醤油の醸造も盛んで、大坂方面に売り出し、江戸初期には既に浜口家の銚子への進出があった。
広村は「稲むらの火」で有名な地で、大きな津波に度々襲われている。天正13年(1585)の大地震の時の津波で大きな被害を受け、畠山氏の築いた堤防が壊されてしまった。その後、防波堤を築いては大津波で壊され、また築くを繰り返した。大地震は宝永4年(1707)・安政元年(1854)に起こり、壊滅的な惨害を被った。この安政の大地震で浜口儀兵衛(梧陵)とその一族は津波防止のために私財を投じて築いた防潮堤は、現在国史跡に指定されていて、今も地域住民を守っている。
出稼ぎ漁業と醤油醸造で栄えては、大津波で大打撃を受けて衰退することを繰り返していたが、安政の広村防潮堤の完成により、それ以後、津波被害はなく一番最近の昭和19年発生の東南海大地震でも津波被害を防いでいる。
前述のように、広村は江戸初期の慶長検地高目録に「広ノ庄町」とあるほどで、その中心部の市街化が進み、市街の縦の大筋は3筋あって、田町・中町・浜町と称し、横の大筋には新町・御幸道などがあった。そのうち中町通りは8町あったという。
広は今でも広川町の政治・経済・文化の中心地として機能しているが、3筋からなる古くからの町並には無住になった家屋も多く散見でき、過疎化が激しい印象を受ける。でも、随分繁栄していた証の町並が残っている。重厚な本葺き屋根の大型家屋が点在する。板囲いの家屋であったり、白漆喰塗り込めの家屋であったり、虫籠窓を備えた家屋、千本格子戸を残した家屋、平屋建て・中2階建て・2階建ての家屋が混じった町並が展開する。屋根も重厚な本瓦葺きの家屋が多く見られる。
そんな中に浜口儀兵衛(梧陵)(西浜口家)と一緒に、安政の広村防潮堤を築いた東浜口家の家が見られる。主屋等は公開されていなかったが、庭園は東浜口公園として公開されていた。
町並み指数  40
参考文献
   和歌山県の地名    平凡社    下中邦彦    1983年
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和50年


広の町並

広の町並

広の町並(東浜口家)

広の町並

広の町並

広の町並

広の町並

広の町並

広の町並

広の町並

広の町並

広の町並
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