和歌山と松阪を結ぶ紀州(和歌山)街道沿いの宿場町の鷲家は、幕末の天誅組の終焉の地として有名である。 鷲家の江戸時代のはじめは幕府領であったが、元和5年(1619)からは紀伊和歌山藩領となった。和歌山藩領となったのは、和歌山街道が和歌山藩主の参勤交代路となり、本陣が置かれたことによる。本陣をはじめ油屋・日裏屋・上辻屋などの旅籠がならび、小さな宿場町の佇まいを見せ、伊勢詣での旅人や行商人の往来で賑わった。 和歌山街道と伊勢表街道へ通じる道の三叉路には、文政11年(1828)に建てられた道標が残っている。「右いせ江戸」と刻まれたこの道標は、江戸をさすものとしては最西端の道標と言われている。 文久3年(1863)の天誅組の変には、和歌山藩兵の固めるこの地に天誅組総裁藤本鉄石らが突入して戦死している。 この鷲家も吉野林業地帯に入っていて、杉・檜を中心とした育成林業も盛んに行われている。 古い町並は上記三叉路を中心に短い範囲の町並であるが、かって賑わった宿場町当時の面影を残した伝統的な家屋が連なっていた 平入り切り妻造り、中2階建てで、千本格子を残した家屋が多く見られ、煙り出しを残した家も散見でき、整った家屋が連なる町並であった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1990年 奈良県の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 |
鷲家の町並 |
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