橋本市の町並み
古佐田・橋本・東家
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東家の町並み
  橋本は高野街道の表口や大和街道沿いで、常に交通の要衝を占めていた。中でも16世紀末、高野山中興の僧 木喰応其による橋本町の開設以後、水陸交通の要として、紀伊・大和・河内の物資集散地として繁栄し、この地方の政治・経済の中心地であった。
江戸時代は橋本市の中心を占める、古佐田・橋本・東家ともに、和歌山藩領御蔵所 上組(東家組)に所属していた。
橋本は天正13年(1585)僧 木喰応其が荒地を開き、紀ノ川に130間の橋を架け、高野山往還のための宿所とし、橋本と名付けたのが始まりである。開発地は秀吉から町屋敷として免許され、町助成のため塩市の特権も認められ、大和や紀ノ川流域の村々へ搬出される塩は必ず橋本の塩市で取引するよう義務づけた。
高野街道と大和街道の交差する橋本は宿場町・船継場となり周辺の物資が集まり、物資輸送の川舟が和歌山との間を往復して繁栄した。
当時の家数・人数を見ると、享保元年(1716)の「御巡見様御尋之時に可申上口上覚」では、橋本町の家数218軒・人数は橋本町、古佐田合わせて1,417人。天保年間(1834〜43)の「紀伊続風土記」によると、橋本町・古佐田村合わせて家数390軒・人数956人、東家村は家数103軒・人数465人であった。東家村も橋本町同様に「人家多く町をなし紀伊見峠を越えて高野に至る街道なれば旅舎もあり‥‥‥」とあり「続風土記」に記されている。
享保元年(1716)の「御巡見様御尋之時に可申上口上覚」では江戸中期の橋本町・古佐田村の商売人は塩屋25・麦米屋21・古手屋16・荒物問屋12・魚屋10・質屋5・木薬屋3・醤油屋3・味噌屋3・酒屋3・小間物屋2となっている。
塩屋が他所と比べて多いのは、秀吉によって免許された塩市に起因している。
橋本塩市は天正15年(1587)秀吉によって許可されて以来、「一六塩市」と呼ばれ、塩仲間によって月六回、後に12回開かれていた。
今、伝統的な商家の建物は古佐田・橋本・東家に多く残り、中でも旧大和街道筋の橋本の本町商店街に多く残っている。しかし、アーケイドのビニールシートに覆われ、隙間から垣間見ることしかできない。
伝統的な商家の建物は切り妻造り、平入り、中2階建て、虫籠窓が一般的な建て方であり、中には煙り出しや袖壁が備わった家屋もあった。
アーケイドに覆われた本町商店街の西端で今地元の有志が「まちかど博物館」を開くために、資料を集めて展示のための準備作業をされていた。町並み保存への取り組みに発展し、町並みが保存されるようになればいいのにと思う。
町並み指数  50
参考文献
   和歌山県の歴史散歩  山川出版社  和歌山県高等学校社会研究会  1995
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年
   和歌山県の地名  平凡社  下中邦彦  1983

国道24号線沿い橋本の町並み

古佐田の町並み

本町商店街の橋本の町並み

本町商店街の橋本の町並み

本町商店街の橋本の町並み

東家の町並み
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