橋本市清水の町並み
清水・横座・賢堂
地図


清水の高野街道沿いの町並み
  清水は橋本市街の南側を流れる紀ノ川を隔てた南側の川沿いに位置している。
京都・大坂から高野山に向かう高野街道の古道は、河内国から紀見峠を越え、 御幸辻から菖蒲谷を経て、高野口町で紀ノ川を越えていたが、近世以降は現在の国道371号線沿いに南下し、橋本川の河口辺りで紀ノ川を越えた。そして南岸の賢堂三軒茶屋から清水・学文路を経て、河根から不動坂口を登り、女人堂に至るこの道は、京都・大坂から高野山へのメインルートであった。現在も紀ノ川南岸の賢堂三軒茶屋に渡し場を示す宝暦2年(1752)の常夜灯が2基残っている。
この地は古くから高野山領で、天正19年(1591)に豊臣秀吉が興山寺の木食応其(もくじきおうご)個人に与えた1000石の領地である。それは、信長の全国統一事業を受け継いだ秀吉が、天正13年(1585)紀州攻めを行い根来寺を焼き払い、太田城を水攻めにした。高野山は木食応其を秀吉のもとに送って、戦わずして降伏したことによる。
その後、高野山行人領清水組の傘下であって、興山寺の支配下にあった。清水組大庄屋を世襲した萱野家の文章によると、元和10年(1624)の清水組の村高(清水・馬場・西畑・東畑・向副・賢堂・横座を含み河根・中道を除く)は、934石であった。
清水村の村高は萱野家文章によると、元和10年(1624)で259石余りで、家数197軒、人数879人である。
清水村は高野街道の伝馬所として栄え、街道には参詣人の道中の安全を守るために六つの地蔵を祀っていた。清水村に第一の地蔵堂が現在も残っている。
高野街道の渡し場跡に立つ大きな常夜灯には、高野山興山寺領の名が刻まれていた。天正15年(1587)に応其上人が紀ノ川に、橋本の地名の由来となった長さ130間の橋を架けたが、紀ノ川の増水により3年後に流失し、橋に代わって船による横渡が行われるようになった。紀ノ川の北岸にも同様のものが建てられ、この南北の常夜灯の間で長く「無銭横渡」が行われた。街道筋と云っても高野山への参詣道の宿駅であって、伝馬所と旅篭で成り立っていたようだ。
大庄屋の菅野家は今でも健在で、大きな門と壮大な主屋、土蔵、土塀などから成り立っていた。町並を構成する民家は、入り母屋又は切り妻造りの中2階建て、平入り、桟瓦葺、虫籠窓を備え、煙りだしを備えた家もあったが、駒繋ぎを残した家は見つけられなかった。
町並指数 60
参考文献
  和歌山県の歴史散歩  山川出版社  和歌山県高等学校社会科研究協会 1993
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和60年
  和歌山県の地名  平凡社

清水の町並み

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旧大庄屋の屋敷(萱野家)

清水の町並み

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