榛原町の町並み
榛原
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萩原(旧中町)の町並み
  奈良県の北東部、宇陀郡の北東部、淀川水系の宇蛇川上流域に位置する。
大和と伊勢を結ぶ交通の要衝である榛原は、中世には関所が設置され、江戸期には伊勢参宮・初瀬詣の宿場として発展した。伊勢本街道と初瀬街道の分岐点に位置し、どちらも伊勢参宮への道で、参宮客で賑わいをみせた。
初瀬街道は初瀬から榛原の萩原宿の「札の辻」で分岐し、名張・阿保を越え、六軒に出て参宮街道から伊勢に入る。伊勢本街道は、榛原の萩原宿の「札の辻」で分岐し、曽爾・御杖を経て伊勢に入る道をいう。
江戸時代には萩原村といい、はじめ松山藩領、元禄8年(1695)からは幕府領。宇陀郡史料によれば、寛永7年(1630)上萩原村と下萩原村に分村したとある。即ち萩原村は江戸初期から上下2ヶ村に分けて扱われていた。しかし万治3年(1660)頃からは、下萩原が萩原村となったようだ。
榛原は初瀬街道と伊勢本街道の分岐点(札の辻)のある宿場町として栄えた町で、その当時の面影が多く残っている町である。萩原宿の「札の辻」辺りについては、宝暦13年(1763)の「新撰伊勢道中細見記」によれば、当時おおいに賑わっていた様子が記載されている。
幕末には「あぶら屋・河口屋・大坂屋・阿波屋など33軒の屋号をもった宿屋・商家が街道筋に並んでいて、おおいに栄えた。
伊勢の大神宮への参宮が容易になってきたのは鎌倉時代の末期ごろである。江戸時代になり、天下が統一され社会が安定してくると、街道・宿駅の整備も進んで、旅の不安も大幅に解消されていき、旅行ブームが始まる。そして庶民が伊勢神宮を目指した。これが「おかげ参り」である。最も有名なおかげ参りは宝永元年(1705)4月9日から5月29日までの50日間に362万人(一日平均72400人)、文政13年(1830)3月20日から29日までの10日間で228万人(一日平均228000人)というから驚異的な数字であった。
初瀬街道に沿って名張方面に行くと、煙出しのある民家が二軒並んでいた。ともに間口は狭いが奥行きは大きい。一軒は赤の漆喰壁に装飾されて大きな虫籠窓が特徴で、切り妻造り、赤漆喰塗り込めの中二階、平入り、桟瓦葺、出格子、煙出しであった。もう一軒は切り妻造り、白漆喰塗り込めの中二階で虫籠窓、平入り、桟瓦葺、出格子、煙出し、袖壁があり、奥行きの大きい裏へまわると、白壁の土蔵があり、装飾された持ち送りがきれいだった。
その先に間口の広い商家がある。真壁だが黒壁に白の虫籠窓が印象的で、平入り、桟瓦葺、格子、オダレ、駒寄せがあり、裏へまわると白壁の土蔵が連なり、蔵には忍び返しも付けられていた。
初瀬街道が伊勢本街道に突き当たったところが、本居宣長公宿泊の看板をあげた「あぶら屋」である。あぶらやは切り妻造り、二階建て、桟瓦葺、平入り、袖壁、煙出し、虫籠窓の横には「あぶらや」と旧の文字の屋号が上がっていて、入り口に「駒繋ぎの環」が付けられていた。
あぶらやの前に大正時代に建てられたと思われる銀行の建物があり、その前に札の辻の道標が立っていた。この三差路は近世の札場であったのでこう呼ばれ「右いせ本かい道」「左あをこ江みち」と刻まれていて、文政11年(1828)に建てられたもの。
この札の辻の道標の建立にあったては、「札の辻道標裁判事件」が起こっている。各街道は客引きの思惑から本街道名を争った事件があった。10年余りかかり奈良奉行所の評定の末にこの道標は許されたいわく付きの道標だ。
札の辻から伊勢本街道を桜井方面に向かって少しいくと、伝統的な建物が小道を挟んで二軒並んでいる。一軒は元庄屋で入り母屋造り、錣屋根の贅を尽くした建物、平屋、妻入り、格子、荒格子、見越しの松の枝が軒先まで延ばされていた。このあたりの景観は全く江戸時代にタイムスリップしたようだ。  
町並み指数 60
参考文献    
  奈良県の歴史散歩下  山川出版社  奈良県歴史学会  1996年
  はいばらの伊勢街道  榛原町  榛原町広報課  平成3年
  榛原町史/榛原町  榛原町史編纂委員会
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1990

伊勢表街道の町並み 

伊勢本街道の町並み

萩原(旧中町)の町並み

札の辻の旅篭「あぶらや」

伊勢本街道の町並み

伊勢表街道の町並み


伊勢表街道の町並


 伊勢表街道の町並の裏側
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