大和では、平安期から奈良の諸大寺が競って荘園を獲得し、興福寺や東大寺がその中心であった。 平安末期、平清盛が大和を知行地とし、鎌倉時代には益々荘園の領主的立場が強化されていった。 南北朝時代には葛上郡の武士たちはその勢力の拡大に努め、南朝方について活躍した。 室町期に入り大和永享の乱後から、楢原、越智の両氏の対立が長く続いた。 慶長5年(1600)関ヶ原の戦い後、この戦いの軍功により、和歌山城主桑山重晴の次男元晴が、1万2千石でもって御所に入部し陣屋が置かれた。その後2万6千石余りとなったが、寛文6年(1629)お家が断絶し廃藩となった。このときおかれた陣屋の位置は定かでない。 そして寛永6年(1629)からは幕府領、同16年(1639)からは郡山藩領、延宝7年(1679)からは幕府領となり、以後明治に至るまで変わらなかった。宝暦5年(1755)の家数873、人数3240となっている。 御所の町は葛城川を境に東御所と西御所にわかれる。 町の成り立ちについては諸説がある。一説には西御所が桑山氏の陣屋町、東御所が円照寺(浄土真宗)の寺内町というもの。別の説は東御所に残る外堀川・内屋敷・東外屋敷・外屋敷・的場・馬場などの地名から、陣屋町を東御所とし、西御所は東御所の続きで多少町場になったという全く反対の説である。 江戸時代のこの地の産業として大和絣がある。水田の綿花栽培が盛んであったが、宝暦5年(1755)頃、御所の浅田松堂によって大和絣が発明され、大和の特産品となった。その他の産物としては、売薬製造や、菜種栽培による絞油業が盛んであって、御所柿という特産品もあった。 古い町並はJR御所駅の南東、葛城川の西側に展開する。本町・中本町・西久保本町・南中町・西町・御堂魚棚町・六軒町・神宮町等がある。町内は碁盤目状になっていて、道路の所々で屈曲しT字型になっていて、町割や堀跡に城下町の面影を残している。 その中でも本町通りと中心としたあたりが、かっての商業の中心であったことが、大きな商家の店構えや建物から伺える この辺りの西御所は元文5年(1740)の大洪水で葛城川の堤防が決壊し、大きな被害を被ったところで、これを御所流しという。一説によると流家601、流死人218とも云う。 町並を構成している、古い伝統的な商家の建物は、切り妻造りの中二階建て、白漆喰塗り込めの虫籠窓、本瓦葺きであったようだが今は殆ど桟瓦葺きに代っていた。煙だしを備えた家も残り、袖壁も多くの家で備わっていた。格子、出格子であり、中には蔀戸やバッタリを残している家もあった。 奈良県の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている、今井町にも匹敵するような古い町並みが残っているにも拘らず、地元の住民の保存に対する意識が低いのか、保存に対する手立てがされているようにも思えなかったのが残念である。 このような古い町並みは即保存に向けて行動しなければ、無くなってからではどうしようもないのだが。 奈良県の歴史散歩上下 山川出版社 奈良県歴史学会 1993年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1990年 http://www.aasa.ac.jp/people/onomi/3705.html |
本町の町並み |
本町の町並み |
本町の町並み |
西久保本町の町並み |
西町の町並み |
西町の町並み |
御堂魚ノ棚町の町並み |
新宮町の町並み |
新宮町の町並み |
中央大通りの町並み |