五條市の町並み
五條一丁目・本町二丁目・新町二丁目・二見一丁目
地図


本町二丁目の町並み
  吉野川中流域の北岸 、伊勢街道・紀州街道や西熊野街道など、四方に街道が結んでおり、吉野川、紀ノ川の水運によって開けた交通の要衝である。そのため五條の町(須恵五條村)はすでに15世紀の初めに市場が開かれており、物資の集散地、在郷町、宿場町として栄えた。
豊臣秀吉の政権下では、大和郡山城主羽柴秀長が支配していた。その頃は須恵五條村として一ヶ村であったが、慶長のはじめ頃(1596〜)に須恵村と五條村に分かれた。重要文化財の栗山家住宅は棟札から慶長12年(1607)に建てられていることから、中世から近世に移る頃には須恵から五條にかけての地域にかなりの規模の町場があったことがうかがえる。
そして新町村は、松倉重政が慶長13年(1608)に二見城に入ったとき、五條と二見の間の中間に新たに造った町である。重政がこの地域の諸役を免除して、近隣の商人を呼び寄せて発展を促したことが、江戸時代に五條の町場が大きく発展するきっかけとなった。共にはじめは二見五條藩領、元和2年(1616)幕府領、同5年(1619)郡山藩領、延宝7年(1679)からは幕府領のままで明治を向えた。
松倉重政は元和元年(1615)の大坂夏の陣の後に肥前島原へ国替えとなり、その後幕府領、郡山藩領、幕府領となったが、その後も発展を続け寛政7年(1795)には幕府の五條代官所が設置され、五條は文字通り南和地域の政治、経済の中心地となり、人、物、情報の集まる場所として繁栄を極めた。
古い伝統的な町並みは須恵、五條、新町に残り、五條が南和地域の政治経済 交通の中心地として繁栄していたときの名残を留めている。
古い町並みが残る五條には、指定文化財が3軒ある。
五條一丁目に国の重要文化財の栗山家住宅がある。本瓦葺、正面庇付きの入り母屋造りで棟札に慶長12年(1607)の銘があり年代の判っている民家では日本最古のものである。平入り、格子、駒寄せ、オダレつき、煙だしは漆喰で塗り込められていた。
旧紀州街道と国道168号線の交わった所に五條市指定文化財の栗山家がある。この家は五條の町並みの多くが中二階建てなのに対して、単層に見せている点が珍しい(重要文化財の栗山家も同じ)。これはこの家が元禄16年(1703)の大火を生き延びた建築であるためで、この元禄の大火以前の町並みの姿を今に伝える貴重な家である。この栗山家には元禄9年(1696)の棟札と同10年(1697)の丸瓦がある。
もう一軒は国道168号線沿いにある、奈良県指定文化財の中家住宅である。宝永元年(1704)年の建築で、元禄の大火後に建てられ、特に防火対策が厳重に施された建築が特徴である。
五條の古い町並みで、商家の建物が連なっているところは、五條一丁目から西へ旧紀州街道沿いの、本町2丁目、新町一丁目までの間である。江戸時代の景観を残す町並みが続いていて大迫力で見るものに迫ってくる。江戸時代の建物が77棟、明治時代の建物が19棟確認されており全体の75%を占める。
五條の町並みの特徴は、木造の本瓦葺きで、軒裏や二階壁面を厚く漆喰で塗り込め、虫籠窓をつけ、一階は格子、蔀戸を用い全体的には重厚な建築である。 窓ガラス、サッシュなどが無く全部格子で本瓦葺、中二階建てで塗り込め壁の虫籠窓で全く江戸時代にタイムスリップしたような景観であり、今でもこの様な景観が残っているのが不思議に思え、見るものに大きな感動を与える。
町並み指数 70
参考文献 
  五條町並みものがたり  市立五條文化博物館  平成8年
  五條の歴史と文化  市立五條文化博物館  平成8年
  遊ぼうマガジンNO、19 関西小さな町小さな旅 PARTU  山と渓谷社  1997年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1990年
  奈良県の歴史散歩下  山川出版社  奈良県歴史学会  1993年  

五條一丁目の町並

五條一丁目の町並

五條一丁目の町並

五條一丁目の町並

本町二丁目の町並

本町二丁目の町並

新町二丁目の町並

新町二丁目の町並

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