五條市須恵は奈良県中央部の最西端、吉野川右岸、河岸段丘上に位置している。 もとは須恵五條村として一ヶ村であったが、慶長年間〜寛文年間(1596〜1673)に須恵村と五條村に分かれた。 江戸はじめは二見五條藩領、元和2年(1616)幕府領、元和5年(1619)郡山藩領、延宝7年(1679)からは幕府領。 村高は「慶長郷帳」では「すへ五條」と見え445石余、「寛文郷帳」136石余、「元禄郷帳」209石余、「天保郷帳」170石余。 文久3年(1863)天誅組が五條代官所を焼き払い、桜井寺を本陣として新政府を唱えた場所。 二見村、新町村、五條村に連なる須恵村は宿場町、在郷町、川湊町として商業が発達し、伊勢街道・紀州街道・西熊野街道などの道筋として旅籠や商店で賑わい、町場を形成していた。 吉野川には川船も上下し、海産物や木材の集散地ともなった。吉野郡奥地の物資の集散・中継ぎ役を果たしていた。 町並はJR五条駅前通りの西で、南に続く商励会通りになり 、吉野川に突き当たる手前で西に折れて新町通りとなり、本町・新町・二見に続く旧紀州街道に沿って展開している。 旅籠や旅館は殆ど無くなってしまったが、宿場町・在郷町としての面影が色濃く残る町並が見られる。 伝統的な様式で建てられた商家建物が旧街道筋に沿って連なっていたり、点在したりしているが、営業を続けておられる家が少ないのが寂しい限りであった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1990年 奈良県の歴史散歩下 山川出版社 奈良県歴史学会 1993年 |
須恵1丁目の町並 |
須恵1丁目の町並 |
須恵1丁目の町並 |
須恵1丁目の町並 |
須恵1丁目の町並 |
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五條1丁目の町並 |
五條1丁目の町並 |
五條1丁目の町並 |
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