御坊市は浄土真宗本願寺の日高別院の寺内町として発展した町で、和歌山県のほぼ中央、日高川の河口に位置する。 室町時代以降は、日高では亀山城主の湯川氏が支配するようになる。十一代の直光は「紀州の総大将」といわれるまでになっていて、戦国大名へ発展する勢いであった。しかし湯川直光は享禄元年(1528)に摂津国江口での三好長慶軍との戦いに敗れ、本願寺の証如上人の助力により無事に日高まで帰還できたことから、天文年間(1532〜55)に領内美浜町吉原に坊舎を建てて寄進した。この吉原坊舎が日高別院の前身だ。 天正13年(1585)羽柴秀吉の紀州攻めで湯川氏も滅び、吉原坊舎も戦火にかかり焼失したが、文録4年(1595)に佐竹伊賀守(鷺森の有力者)の援助で現在地に鷺森御坊の別院として御堂を再建した。 人々がこの寺を「日高御坊」「御坊様」と呼んだのが御坊市の地名のおこりだ。これ以降、門徒を中心に人々が近郷から周辺に集住し町場が形成され、日高地方の産業の中心になった。 温暖多雨・肥沃な日高地方は、農林漁業を中心に商工業・大廻船などが盛んで、特に緊迫した様子はなく、江戸時代に続発した一揆も起こっていない。町は日高別院を中心に西町・中町・東町にわかれ、特に東町には蝋燭・酒・木材問屋や醸造業者・油屋・薬屋・旅篭が軒を並べ寺内町として栄え、現在も土蔵をもった古い町並みが残っている。 日高大廻船については、物資の集積地大坂と大消費都市江戸間の輸送手段として、主に大坂・堺の問屋に借り上げられ、回漕に従事していたのが日高廻船である。 酒や有田みかん・日高蝋などを江戸に下ろし、帰りには干鰯を積み、その全盛期の明和〜天明(1764〜89)には遠く北陸地方にまで出入りしていた。しかし度重なる海難事故、得意先の灘の造り酒屋が自前の廻船を持つようになって幕末には衰退した。 御坊や薗(新町)の伝統的な町家は、切り妻造り中二階建又は平屋建て、本瓦葺、漆喰塗り込めの細い虫籠窓か鉄格子、出格子、袖壁などである。 御坊市には昔ながらの製法で、径山寺味噌や醤油を造っているところがあり、若き日の故伊丹十三の記述が残っている。故山本嘉次郎先生に本物の親子丼を食べさせるために、御坊へ醤油を求めにきた時の記述である。 和歌山県の歴史散歩 山川出版社 和歌山県高等学校社会科研究協会 1995 御坊市史 御坊市 御坊市史編纂委員会 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 |
東町の町並み |
東町の町並み |
新町の町並み |
薬屋の看板 |
新町の商家 |
東町の町並み |