御坊市塩屋の町並み
北塩屋・南塩屋
地図  地図


北塩屋の町並
 塩屋は江戸時代初期には北塩屋浦と南塩屋浦に分かれていた。
塩屋は古くからの熊野詣の重要な通過点であり、熊野九十九王子社の一つが設けられていた。「大御記」の永保元年(1081)9月29日に熊野参詣途上の藤原為房は塩屋上野牧預宅に宿泊している。
江戸時代に分かれていた北塩屋浦から記載すると、延宝6年(1678)の大差出帳(日高鑑)によると北塩屋浦・天田村・中村の三ヶ村に分かれていて、家数・人数合計は133・776である。幕末の「紀伊続風土記」によると三村合計で306・1147と大きく増加している。漁業は地引網漁が中心で、網漁業が盛んであった。又、菱垣廻船が結成されて以来、当地の日高廻船もその主要メンバーとなっていて、最盛期の安永8年(1779)には11艘の大廻船が日高廻船(55艘)に参加して、大坂〜江戸の幹線路に就航していた。文政年間(1818〜30)以降酒造業者の自己運送・難船の多発などで、当地の廻船は急速に衰退して行ったが、幕末にかけて地引網を主とした漁村としては発展を極め人口が大きく増加している。
南塩屋浦については延宝6年(1678)の大差出帳(日高鑑)には南塩屋浦と森岡村に分かれていて、家数・人数の合計は59・256とある。幕末の「紀伊続風土記」では両村の家数・人数の合計は210・963と大幅に増加している。これは北塩屋浦同様、地引網を主とした漁業の発展によるものである。廻船業も北塩屋浦同様日高廻船(55艘)に参加して当浦からは6艘が活躍していた。
北塩屋浦・南塩屋浦とも熊野街道に沿っていたので宿茶屋を営む者もあり、度々本宿の小松原村と訴訟問題を起していた。
両浦とも明治に入り、農漁業を中心とした地域であったが、明治後期に入り養蚕業が発達、大正期に入り除虫菊栽培が盛んとなった。
今、古い町並は旧熊野街道に沿って展開している。熊野街道の国道42号線がバイパスとして旧街道の南側の海岸沿いを通ったので、古い町並はそのまま残ったことになる。この地も海岸に面して風が強いのでしょう本瓦葺きの平屋の家が連り、入り母屋造りが多いのが特徴。平入り・妻入りは入り混じっているがどの家も平屋の町並は、内陸部では見られない現象です。過っては全ての家が本瓦葺きだったようですが、今では本瓦葺きと桟瓦葺きが半々程度の様子。
町並み指数  40
参考文献
   和歌山県の地名  平凡社  下中邦彦  1983年
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和50


南塩屋の町並

南塩屋の町並

南塩屋の町並

南塩屋の町並

南塩屋の町並

南塩屋の町並

南塩屋の町並

北塩屋の町並

北塩屋の町並

北塩屋の町並
古い町並みに戻る