明日香村は飛鳥文化の中心地で、大陸からの渡来人が多く住んでいたところと云われている。 飛鳥川上流の冬野川に沿う谷筋には約200基からなる群集墳の分布がみられ、平地部には石舞台古墳や阪合や檜前地区の終末期古墳(岩屋山古墳・牽午子塚古墳・高松塚古墳・中尾山古墳)が解明を待たれている。 また、6世紀から7世紀末にかけての100余年間、推古天皇から持統天皇に至る宮都の地であった。 藤原京を平城京に移して飛鳥時代は終わり奈良時代に入ると、飛鳥寺(元興寺)・大官大寺(大安寺)などの、飛鳥時代に創建された主要寺院も移転し、飛鳥地方は閑寂の一途をたどることになった。 中世には春日社・興福寺などの荘園が経営され、地方武士が僅かに出ただけであった。近世にはいり岡寺や壷阪寺への観音霊場巡礼・吉野詣でが盛んになっても、この地は通過地に過ぎず、村は純農村として明治に至った。 飛鳥村の江戸時代は高取藩領で、天保2年の宗門改帳によると、戸数57軒・人数218人。また嘉永5年宗門改帳では、戸数64軒・人数291人であって、この内百姓が51軒・215人、ほかに職人・宿屋・鍛冶屋・豆腐屋・呉服屋・質屋・荒物屋・機織屋・紺屋・煙草屋などを営む者もおり、農業余業に従事するものが人口の74%にもなっていた。 今、集落は飛鳥坐神社の参道、一の鳥居から二の鳥居付近を中心とし、古い伝統的な様式の民家も飛鳥坐神社の参道両側に沿って展開していた。 この辺りにも大和棟の民家が多かったのだろうが、今でその数を減らし、極少数の家屋が大和棟であったが、全てトタンで覆われていて、茅葺のままの家は見られなかった。 一般的な建物は切り妻造り平入り、中2階建て、漆喰塗り込めの虫籠窓、格子・出格子、で多くの家屋に煙り出しが備わり、駒つなぎの環を残した家も多くあった。 江戸時代から明治時代も純農村であったが、余業に小売商などを営んでいたらしいが、この飛鳥坐神社参道両側の町並を見る限り、街道筋の町と云う印象であり、裕福な街道筋の集落だったようだ。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1990年 奈良県の歴史散歩下 山川出版社 奈良県歴史学会 1993年 奈良県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1981年 |
明日香村飛鳥の町並 |
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