有田川町金屋の町並み
金屋・市場
地図


金屋の町並
 有田川の中流域の河川段丘に発達した町で、町としては意外と古い。戦国期から見える地名で、文明18年(1486)には既に金屋の地名が有る。金屋は応永7年(1400)畠山氏が鳥屋城を修築した頃から城下町的な性格を帯びた集落が形成されていたようだ。
江戸時代は和歌山藩領知行地。幕末の紀伊続風土記には家数77・人数321。承応3年(1654)の家数88・人数363、弘化4年(1847)の家数59・人数253とある。明治6年には家数109・人数383であった。
続風土記に「古鋳物師などありて村名となれるなるへし」とあるように、鋳物師がいたことにより発生した地名のようだ。
金屋は市場と共に有田川の水運の関係から、山間部の東部有田と平野部の西部有田との接合点で物資の輸送基地であった。川上から棕櫚や木炭が川下に下ろされ、またミカン輸送基地でもあった。明治期になってもこの中継点の機能に変わりなく、大正5年に有田鉄道が金屋口まで開通してからは一層繁栄することとなった。
今、金屋の町並はこの明治から大正・昭和初期に繁栄した町並が残っている。とは言え古い伝統的な様式の家屋は所々に点在するのみである。海岸部に多かった平屋建ての本瓦葺きもここでは少なく、平屋建ての建物も倉庫や物置などの用途が殆どのようだ。
紀伊半島の和歌山市から南は急峻な山が海岸近くまで迫っている所が多いので、海岸部以外に町が発展している所が無いようだが、この金屋だけは特異で、海岸部から10km以上も離れている所に町が発展したのは、有田川の水運に大きく拘わっているためだろう。
町並み指数  30
参考文献
   和歌山県の地名  平凡社  下中邦彦  1983年
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和50


金屋の町並

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